「先生が言うなら」の重み――言葉が信頼を生む瞬間と、その裏にある責任

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「先生が言うなら」の重み――言葉が信頼を生む瞬間と、その裏にある責任

「先生が言うなら」と言われた瞬間に感じる、妙なプレッシャー

「先生がそう言うなら、そうします」。この言葉を何度聞いただろう。信頼の証かもしれない。でも、その一言が私の胃をキリキリと締めつけることがある。「なんでそこまで頼る?」と思いつつも、それを顔には出せないのがこの仕事。田舎の司法書士には、名前よりも「先生」で呼ばれることの方が多い。重たくて、不自由で、それでも逃げられない肩書きの責任。それが私の日常だ。

信頼されることは嬉しい、でも素直に喜べない理由

正直、最初は悪くない気分だった。「先生のおっしゃる通りで」と言われるたび、自分がプロとして認められている気がした。でも、いつしかその言葉が重荷になった。「責任、全部こっち?」という場面が増えてきたのだ。本人の意思よりも、私の判断にすべてを預けようとする空気に、違和感と怖さを覚えるようになった。

「自分で判断したくない」という空気感

一番困るのは、「どうしたらいいですかねぇ」と完全に丸投げされるパターンだ。もちろん専門家としての意見は出す。でも、決定するのはあくまで依頼者だと思っている。ところが、「先生が言ったからこうなった」と後で言われることもある。判断を放棄し、その責任だけはこちらに渡してくる。正直、たまに心が折れそうになる。

司法書士という肩書きが生む“無言の圧力”

司法書士という肩書きがあるだけで、妙に神格化される場面がある。たとえ同じ人間でも、書類を扱っているだけで「間違えるはずがない」と思われてしまう。現実はそんな完璧じゃない。なのに、ちょっとでもこちらが迷う素振りを見せると、途端に不安な顔をされる。結局、常に「わかっているフリ」を求められる。

先生=正しいという誤解

田舎に行けば行くほど、「先生」の肩書きは絶対的だ。誰もが疑いを持たず、「先生が言うなら間違いない」と信じる。いや、それはありがたいことなんだけど、現実にはこちらだって迷う場面がある。制度改正があれば情報を追わなきゃいけないし、複雑な案件は調査や確認が必要だ。それでも「即答」を期待される。

こちらも迷ってるときくらいある

例えば、相続人の調査で戸籍を取り寄せたら、見知らぬ兄弟の存在が浮上したとき。「この人、入れるべきか?」と頭を抱えることがある。調査方法は法律に準じるが、運用面では判断が分かれる場面も多い。そんな時、依頼者は「先生が決めてください」と言う。いやいや、ちょっと待ってくれ。こちらも迷ってるんだよ……。

専門家だけど、神様じゃない

専門家という立場は確かにある。でも、すべての答えを知っているわけじゃない。判断材料を整理して、法的に適切な選択肢を提示するのが私たちの役割だ。なのに「先生はどうしたいですか?」と聞かれるたび、「僕の人生じゃない」と心の中でつぶやいてしまう。神じゃないんだから、万能ではないことをもっと伝えたい。

「先生が言うなら」に隠された依存と丸投げ

信頼の裏には、ある種の依存もある。そしてそれは、時に丸投げになる。判断力や意思決定を自分で持たず、すべて「先生にお任せ」という態度に変わる。そうしたくなる気持ちもわかる。法律や制度は難解で、自分で決めるには不安がつきまとう。それでも、「考えずに委ねる」という態度には戸惑いを感じる。

それって本当に信頼なのか?

「先生が言うなら」と言われて、果たしてそれは信頼なのか?と自問することがある。本当の信頼は、自分の意思を持ちながらも、専門家の助言を聞いて判断する姿勢ではないか。全面的にこちらの言うことを鵜呑みにするのは、信頼というより依存に近い。たまに、こちらを信じているというより、「責任を押し付けたいだけでは?」と思うこともある。

責任を押し付けられる場面にモヤモヤ

過去に「先生がそう言ったから、こうなった」とトラブルになったケースがある。こちらの説明はしていたし、判断も依頼者に任せていたつもりだった。それでも、結論だけが残って「言われた通りにした」となる。説明責任と判断責任の線引きがあいまいになる瞬間。モヤモヤしながらも、対応し続ける日々がある。

自分で決める意思がない依頼者に困る

一番つらいのは、何を聞いても「先生が決めて」で返ってくる依頼者。まるでAIにでもなったような気分になる。「この書類、どのパターンで出しますか?」と聞いても、「先生に任せます」と返される。法的にはどちらでも可能なケースでも、判断の主は依頼者のはず。こちらが全部決めてしまうと、あとで何かあったときに困るのはこっちなのに。

責任を背負う重みと、ミスが許されない現実

「先生が言うなら」と言われた瞬間、背筋が伸びる。そこには「絶対に間違えられない」という無言のプレッシャーがある。書類1枚の不備が、大きな損害に繋がることだってある。信頼に応えるため、細心の注意を払う。でも、人間だからミスもする。それが許されないのが、この仕事の怖さでもある。

一言で相手の人生が変わる可能性もある

登記の内容次第では、財産の行方が決まってしまう。そんな重みのある仕事だと常に思っている。だからこそ、「軽く言った一言」が相手の人生を大きく動かす可能性もある。以前、相続放棄の期限を「早めに動いたほうがいいですよ」と助言しただけなのに、相手は「じゃあ、すぐ放棄します」と決断してしまった。驚いたと同時に、言葉の影響力を痛感した。

「先生が言ったから」は、盾にも刃にもなる

「先生が言ったから」と感謝されるときもあれば、怒りを向けられるときもある。同じ言葉が、安心材料にも言い訳にもなる。だからこそ、毎回の説明には慎重になる。でもそれが積もると、やっぱりしんどい。説明責任と精神的な疲労感。なかなか他人には理解されない重荷が、ここにはある。

それでもやっぱり、「先生」と呼ばれる職業

不満も多いし、しんどいことばかり。でも、それでも「先生」と呼ばれるのは、やっぱり誇りでもある。頼られたくない日もある。でも、最後に「助かりました」と言われた瞬間、それまでのしんどさが少しだけ報われる。それがこの仕事の不思議な魅力でもある。

期待されるからこそのやりがい

毎日がプレッシャーの連続。でも、それは「期待されている」からこそ起きること。誰からも期待されなくなったら、それはもっとつらい。苦しくても、「先生」と呼ばれるからには、最後まで責任を持ちたい。そんな思いで、今日も机に向かっている。

頼られることの苦しさと救いの両面

頼られるって、嬉しいだけじゃない。苦しさと紙一重だ。でも、その分「誰かの役に立っている」という実感もある。矛盾だらけの日々。でも、それが司法書士という仕事なのだと思う。泣きたくなる夜もあるけど、明日も「先生」と呼ばれる場所に戻っていく。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

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