「口を挟みすぎ問題」で全てがストップした一日
今日は久々に精神的な疲労がずっしりと残る一日だった。依頼人本人と直接話すのが基本中の基本なのに、今日はその「本人の声」がまったく聞こえてこなかった。原因は、隣に座っていた娘さん。本人が口を開くたびに「ちょっと違うよ、お母さん」や「それさっきも説明したじゃん」と、あらゆる場面で介入が入り、話がまったく前に進まなかった。善意だとはわかっていても、正直こっちの頭の中はグチャグチャ。終わる頃には何の確認もできていないまま、時間だけが過ぎていた。
本人の意思確認すらできない…司法書士としての限界
司法書士として、何より大切なのは「本人の意思を確認すること」。これができなければ、手続きを進めるわけにはいかない。でも今回は、その「確認」ができなかった。依頼人が何かを話そうとするたびに娘さんが先に答えてしまう。そのたびに、私は「それはお母様のご意思ですか?」と確認しなければならず、空気はどんどん悪くなっていく。しかも依頼人本人が次第に話すことをやめ、ただうなずくだけになっていったのが何よりつらかった。
事例:一言ごとに娘さんの“補足”が入る地獄
今回の件で特に印象的だったのは、「補足」の多さだ。依頼人が「こういうふうにしたいんですけど」と言えば、「いや、お母さん、前にそれは違うって言ってたじゃん」と訂正が入る。「土地は売る方向で考えてます」と言えば、「売らないほうがいいって家族でも話してるのに」と被せてくる。どちらが正しいのかを問う以前に、「この人は何を本当に望んでいるのか」がまるで見えなくなってしまうのだ。
「お母さん、違うってば」——打ち合わせが進まない
実際にあったやりとりで、依頼人が「この土地は昔から父が大事にしてたので…」と話し始めた瞬間、娘さんが「いや、それはおばあちゃんの話だよ」と被せてきた。その時点で依頼人は「あ、そうだったかしら」と自信を失い、話は中断。私は「お父様とお母様、それぞれのご意向は?」と質問を変えてみたが、娘さんが先に「だからさ、売るか貸すかって話でしょ」と返してきてしまい、依頼人の声はかき消された。
当事者不在の会話劇に、ただ座っているだけの私
まるで、法的手続きの打ち合わせというよりは、家庭内会議の傍聴者になったような気分だった。私はその場にいながら、ほとんど発言できず、言葉を挟んでも軌道修正がうまくいかない。依頼人は黙り込み、娘さんは話を進めようとするが、肝心の「本人確認」が取れない。プロとして「今日このまま進めるのは難しいですね」と言うべきだったのだが、空気に飲まれてしまった自分が情けなかった。
なぜ家族が出てくると、話がややこしくなるのか
家族の同席自体が悪いわけではない。むしろ高齢の方の場合、ご家族のフォローがあるとスムーズに進むことも多い。ただ、「本人の意向を尊重する」という大原則が守られなくなると、そこから先はどんどん話がズレていく。特に感情や思い出が絡む場面では、家族の「正しさ」が本人の「気持ち」を覆ってしまうことがある。
善意のつもりが全てを混乱させる瞬間
多くの場合、家族の口出しは悪意ではない。「お母さんが損しないように」とか「あとで困らないように」という思いやりから来ている。でもその善意が、司法書士の業務を「善意の渦」に巻き込んでしまうのだ。善意だからこそ止めづらく、結果として本人の意見が埋もれてしまう。これは依頼人本人にとっても、自立を尊重する社会にとっても、よくない構図だと思う。
「代わりに説明します」は、説明ではない
打ち合わせの場でよくあるのが、「母は難しいので、私が代わりに説明しますね」というパターン。これを言われると困ってしまう。説明というのは、意思の確認の補助ではあっても、本人の代弁にはなりえない。本人が「うん」と頷いたからといって、それが本当の同意かどうかは分からないのだ。あとで「そんなこと聞いてない」とトラブルになるのは、こうした場面の積み重ねだ。
“娘さん”が持ち込む謎のこだわり・条件
なぜか「お母さんの財産」なのに、娘さんの希望が先に語られることが多い。「将来的にこの土地は私たちが相続する予定なので、処分には慎重に」とか、「兄と揉めたくないので、今のうちに…」など。相続や家族関係の調整は大切だ。でも、それが本人の意思よりも先に出てくる時点で、手続きの意味が変質してしまう。
法律の「本人意思原則」が機能しない現場
司法書士は、手続きを代行する職業ではなく、「意思を確認して、法的に記録する」役割を担っている。だからこそ、本人が自分の言葉で語ることが重要になる。でも、家族が強く出てしまう場面では、この基本原則がどんどん崩れていく。これは制度上の問題ではなく、現場で起こる「人と人の力関係」の問題でもある。
娘さんの顔色ばかり見る依頼人
終盤、依頼人が何を言おうとしても、まず娘さんの方を見てから発言するようになってしまった。これは完全に「委ねモード」であり、すでに主体性を失っている状態。こうなってしまっては、もはや本人の意思確認とは呼べない。それでも、場の雰囲気を壊さないように無理やり話を進めようとしてしまった自分にも、後悔が残った。
真の依頼人は誰なのか、を自問する
今回の件で何度も考えたのが、「今、目の前にいる依頼人は誰なのか?」という問いだった。手続きを頼んでいるのは母親。でも、話しているのはほぼ娘さん。そして、判断しているのも娘さん。私は何のためにこの人の前に座っているのだろうか。こういった曖昧な立場に置かれると、プロとしての判断力も鈍ってしまう。
どう対応すべきだったのか?司法書士としての反省
振り返ると、「最初の5分」で空気を作れなかったのが全てだったと思う。明確に、「今日はご本人の意思を確認する時間にさせてください」と言えばよかった。でもその一言を言えなかったのは、優しさだったのか、逃げだったのか。
最初に「ご本人とのやり取りに限定させてください」と言うべきだった?
今にして思えば、あの場で一番必要だったのは「線引き」だった。「ご本人とまず話させてください」と言えば、娘さんの介入も自然と減ったかもしれない。あるいは、それで気分を害されて帰られていたかもしれない。それでも、結果的に何も決まらず、何も進まなかった今日よりは、はるかに良かったと思う。
でも現実には、それを言うのがとても難しい
「感じが悪い司法書士」と思われたくない気持ちが、どうしても出てしまう。特に地方では、「あの先生、冷たい」と噂が立つと、それだけで次の依頼が減ってしまうこともある。だからこそ、余計に言いづらい。でも、その結果が「仕事にならない」のであれば、本末転倒なのかもしれない。
言ったら空気が悪くなることは明白
現場での「空気」は本当に厄介だ。正論を通しても、それが場にそぐわなければ、空気が重たくなる。そして空気が重たくなると、依頼人も話しづらくなり、手続きも滞る。だからこそ、タイミングと言い方が大事なのだが、それが難しい。未だに正解は見えていない。
「感じが悪い司法書士」と思われたくない気持ち
私は、正直そこそこ人当たりがいい方だと思っている。でも、それが裏目に出ることもある。「このくらい我慢しよう」とか、「まあ今日は聞くだけで」と曖昧に終わらせた結果、結局相手も自分も何も得られずに終わる。今後は、優しさと毅然さのバランスをもっと考えていきたい。
経験として残ったもの——次に活かすために
今回の件は、明らかに失敗だった。でも、その失敗から学ぶこともあった。「誰のために」「何のために」手続きを進めるのかを見失わないこと。依頼人の中にある、本当の気持ちを聞き取るためには、空気よりも覚悟が必要なんだと痛感した。
曖昧さを断ち切る勇気が必要なのかもしれない
やさしさを貫くには、時に「嫌われる覚悟」も必要なのかもしれない。自分が毅然としなければ、依頼人の不安も解消されない。次に同じような場面が来たら、私はちゃんとこう言いたい。「今日はご本人のお考えを、まずじっくりお聞かせください」と。たった一言でも、現場はきっと変わる。