あの瞬間の出来事──まさか、と思ったが遅かった
司法書士という仕事は、地味なようでいて緊張の連続です。日常のひとつひとつの業務に細心の注意を払いながら進めているつもりでしたが、そんな私でも「やってしまった」瞬間は訪れるのです。その日も特別な案件というわけではなく、午前中は淡々と書類作成、午後からは近隣の役所を回って帰所する予定でした。そして、帰ってきて鞄から書類を取り出すその一瞬、ほんのちょっとの油断で、預かっていた原本が破れてしまったのです。
いつも通りの午後、でも手元が狂った
その書類は、依頼人がわざわざ遠方から持参してくれたものでした。登記に必要な原本で、役所でもらった再発行不可の書類ではなかったのがせめてもの救いでしたが、それでも原本の傷は簡単には消せません。外出先から戻って急いでいたこと、電話も鳴っていて気が散っていたこと、そうした小さな要素が重なり、手元が滑って角を引っ掛けてしまったのです。音もなく、紙が裂けるような感覚が今でも忘れられません。
油断というより疲れと焦り
「集中力が足りなかった」と言えばそれまでですが、正直、日々の疲れと時間に追われる焦りが原因だったと思います。朝からのスケジュールはぎっしりで、昼食もコンビニおにぎりで済ませ、座る間もなく午後に突入していました。「これを今日中に仕上げないと」と、どこかで自分にプレッシャーをかけていたのかもしれません。あの瞬間、机の上にもう少しスペースがあったら、もう少し丁寧に扱えていたら…と、今でも後悔ばかりが残ります。
この業界、丁寧さとスピードのはざまで揺れる
司法書士の仕事は「丁寧さ」が命ですが、現場では「スピード」も求められます。特に地方の小規模事務所では、一人の司法書士が案件も段取りもすべて担っているケースが多い。丁寧にやりたいという思いと、業務を回すために手早く処理しなければという現実。その板挟みの中で、どうしてもこうした事故は起きてしまうのです。今回は紙一枚でしたが、信用に関わるミスであることは間違いありません。
破れてしまったのは紙だけじゃなかった
紙は補修できます。場合によっては再発行も可能です。でも、「この先生、大丈夫かな?」という依頼人の心に生まれた小さな不信感は、簡単には戻りません。実際、私はその後の打ち合わせで、少し距離を取られているような感覚を抱きました。表面上はいつも通り穏やかで、怒ることもなかった依頼人。でも、そこにある静かな違和感に、私は身を縮めるしかありませんでした。
依頼人との信頼が一気に崩れた気がした
依頼人に事実を正直に伝え、謝罪し、すぐに代替の対応を提案しました。相手は「気にしないでください」と言ってくれましたが、その言葉をそのまま信じることはできませんでした。信頼というのは、日々の積み重ねでしか得られないものですが、壊れるのは一瞬です。ましてや、大切な財産に関する手続きで、預けた書類が破れていたとなれば、不安になって当然です。
表面上は笑ってくれても、胸の内はわからない
司法書士という立場で、依頼人と対等な関係を築くのは簡単ではありません。相手は法律の素人で、こちらを「先生」と呼んでくれますが、その「先生」が失敗したときの信頼の崩れ方は計り知れません。あのとき、笑ってくれた依頼人の顔の裏にあるかもしれない本音を想像すると、胸が痛みます。そして、そうした気持ちを背負って仕事を続けていくのが、この仕事のしんどいところでもあります。
謝罪と再発防止の泥くさい対応
当然ながら、破ってしまった書類については、すぐに弁償と再取得の手続きをとりました。交通費も私負担、役所への問い合わせも私。誰が悪いかと言えば私しかいないので、当然です。でも、そのすべてが精神的にはなかなかキツい。自分のミスで動かざるを得ない一連の作業は、まさに「自業自得」という言葉の重みを噛みしめるような時間でした。
代替書類の取得、時間もお金も自己負担
幸い、役所の対応が早く、代替書類はすぐに発行されました。しかし、それを手配するまでの間、他の仕事は完全にストップ。私自身も、動揺した気持ちを引きずりながらの対応となりました。さらに、その日の夜には疲労感と自己嫌悪でぐったり。事務員にも「大丈夫ですか…?」と心配されました。気を使わせたことにもまた反省です。
「司法書士なら当然」の無言のプレッシャー
この仕事をしていると、「完璧で当たり前」「失敗しないのがプロ」という空気が常にあります。間違いが許されない責任ある仕事であることは承知しています。ただ、人間はミスをする生き物です。私だって、十数年無事故でやってきたわけではありません。でも、「司法書士がやったミス」として見られたときの重さは、やっぱり特別です。
一人事務所の限界、事務員一人では回らない
正直、業務量は限界です。案件が重なると、ひとつひとつに丁寧に向き合う時間も気力も削られていきます。事務員はとても優秀ですが、法的な判断や責任は結局私が取らなければなりません。疲れがたまり、思考が鈍り、注意力も散漫になる…そんなときに、今回のような事故が起きるのです。
結局、最後は全部自分が責任を背負う
書類を届けるのも、謝るのも、再発行を依頼するのも、全部自分の仕事。誰にも任せられないのがこの仕事のつらさです。事務員に「悪かったね」と言ってもらえると救われます。でも、それで責任が消えるわけじゃない。自営業で司法書士をやるということは、孤独な戦いなんだと改めて感じました。
なぜ、こんな凡ミスが起きるのか
自分でも考えました。「どうしてあんな単純なことを?」と。答えはシンプルです。キャパオーバーです。物理的にも精神的にも、もう少し余裕があれば防げたはず。でも、それができないのが現実。忙しさの中で、いつの間にか無理を積み上げていたんです。
忙しさだけじゃない、心の余裕のなさ
余裕がないと、普段なら絶対にやらないような雑な行動を取ってしまいます。手を抜いたつもりはないけど、どこかで「早く終わらせなきゃ」が勝ってしまった。その気持ちが、書類を乱雑に扱わせた。結局のところ、書類を破いたのは指ではなく、私の心の余裕のなさだったと思っています。
感情労働としての司法書士業
法律の手続きだけではありません。依頼人の不安や疑問を受け止め、安心してもらうのも司法書士の役目です。笑顔で対応し、落ち着いた口調で話し、プロとしてふるまう。でも、心の中では「まずい…また期限が…」とか「この案件、どう切り返すか…」と常に葛藤しています。感情の切り替えが求められる、まさに感情労働でもあるのです。
この業界、感情をすり減らす仕事です
依頼人に安心してもらいたい。誠実でいたい。でも、正直言って、しんどい。笑顔を保つのも、丁寧に接するのも、裏ではものすごいエネルギーを使っています。今回のミスは、そんな心の余白がなくなっていた証だったのかもしれません。
読者への問いかけ──あなたならどうする?
司法書士を目指す方、あるいは同じように小規模事務所で働く先生方に、ぜひ問いかけたい。あなたが同じようなミスをしてしまったら、どうしますか? どう乗り越えますか? 私には正解はわかりません。でも、こうして文章にすることで、少しでも同じように悩む方の心に届けばと思っています。
過ちをどう捉え、どう立て直すか
失敗は誰にでもある。それを言い訳にするつもりはないけれど、そこからどう回復するかがプロの姿勢なのかもしれません。私も、次に同じことを起こさないために、まずは「急がないこと」を心がけるようにしました。完璧じゃなくても、誠実であること。それが、司法書士としての最低限の責任だと思います。
あとがき──小さなミスの重さ、大きな教訓
今回の出来事は、小さな紙の裂け目かもしれません。でも、そのミスが教えてくれたことは、自分の限界と、依頼人との信頼関係の重さでした。司法書士という職業の現実と、そこにあるプレッシャー。失敗から目を背けず、そこにちゃんと向き合うこと。それが、今の私にできる唯一の「誠実さ」かもしれません。