正義という名のもとに振りかざされる言葉たち
日々の業務の中で、依頼者からの「善意」によって心がすり減ることがあります。「こうするべきです」と断言されると、一見するとそれは正しい意見のように聞こえます。しかし、実際にはその言葉がこちらの状況や思考を無視して一方的に押し付けられる「正義」であることも少なくありません。そのたびに、こちらがまるで悪者であるかのような気分になります。
「それはこうあるべき」——相談者の一言に傷つく瞬間
ある日、相続登記の件で相談に来られたご婦人に「司法書士なんだからもっと親身になってくれなきゃ困る」と言われました。できる限りの対応はしていましたが、こちらにもスケジュールや優先順位があります。その「当然の要求」が、私にとっては大きなプレッシャーであり、「そうあるべき」という固定観念が心を重くしました。
正論は時に凶器になる
「法律に詳しいあなたがそれを知らないなんて」「もっと早く言ってくれたらうちも対処できたのに」——これらの言葉に悪意はないのかもしれません。けれど、正しさだけを振りかざされたとき、こちらの事情や感情は無視されます。正論だからといって、人の心を踏みじっていい理由にはなりません。正義は扱い方を間違えれば、簡単に凶器になります。
誰のための正義なのかを見失う人たち
相談者の中には、正義感に突き動かされて行動している方もいます。しかし、その正義が誰のためのものなのかを見失ってしまっていると感じることもあります。自分の正義が通らないと感じると、感情的になり、周囲に対して攻撃的になる。そんな光景を目にするたび、私たちはどこかで悲しくなります。
善意であれば何をしてもいいのか
「家族のため」「亡き父のため」といった想いは、非常に尊いものです。しかしその気持ちが強すぎると、他人に対する配慮が欠けてしまうこともあります。以前、相続の場で「うちが一番もらって当然」と主張する方がいて、他の相続人に対して高圧的な態度を取っていました。その行動も、本人にとっては「正義」だったのでしょう。けれども、周囲にとってはただの押しつけでしかありませんでした。
親切の押し売りという暴力
「こうしたほうがいいですよ」「自分ならこうしますよ」といったアドバイスを繰り返し押しつけてくる相談者がいます。最初は親切心からの言葉だったとしても、それが何度も繰り返され、こちらの判断を封じるようになった時、それは暴力に変わります。相手は悪気がないのがまた厄介です。だからこそ、こちらとしては「やんわり断る」ことも技術の一つになります。
「家族のため」——その言葉の重たさ
「家族のためにやっているんです」という言葉を前にすると、否定しづらくなります。けれどもその「家族のため」が、他の家族をないがしろにしたり、無理な要求を正当化したりする理由になってしまうこともあります。家族を思う気持ちは素晴らしいのに、それが結果的に周囲を苦しめるなら、本末転倒ではないでしょうか。
「正しさ」を強要される専門職のつらさ
司法書士という職業は、ミスが許されないというプレッシャーがあります。そのうえで、「正しい対応」を常に求められます。しかし、状況によって最善策は変わるのに、「それが正しいはずだ」と型にはめてくる声が後を絶ちません。正しさの押し付けに日々さらされると、自分の感情や判断力が摩耗していくのを感じます。
司法書士は常に完璧でなければならないのか
依頼者から「間違いがあっては困る」と言われるたび、こちらも身が引き締まります。ただ、完璧な人間などいないのに、そうあらねばならない空気に押しつぶされそうになることもあります。以前、書類に小さな入力ミスがあっただけで、「プロとしてどうなのか」と言われたときは、本当に心が折れそうになりました。
一つのミスで全否定される現実
どれだけ丁寧に仕事をしていても、一つのミスで信頼を失うことがあります。信頼回復の難しさは、司法書士をしていて何度も痛感してきました。間違いを恐れていては仕事にならないと分かっていても、それでも「また何か言われたらどうしよう」と、不安が積み重なっていきます。
事務員にすら気を使う毎日
小さな事務所では、事務員との関係も重要です。ただ、こちらが精神的に追い詰められているときでも、事務員にその感情をぶつけるわけにはいきません。事務員も一生懸命やってくれているからこそ、自分の中のストレスの処理が難しくなっていくのです。まさに「孤独な戦い」です。
正義と倫理の狭間で揺れる判断
司法書士は法律に基づいて判断しなければなりません。しかし、依頼者の「感情的な正義」とぶつかることも多々あります。その間でどうバランスをとるかは、日々悩みの種です。感情を汲みすぎると法律の枠を超えてしまい、法律を優先しすぎると冷たい人間に見られてしまう。そんなジレンマを抱えて生きています。
依頼人の主張と法の整合性の間で
あるとき、依頼者が「この書類を無理にでも通してくれ」と言ってきたことがありました。事情を聞けば確かに気の毒ではありましたが、法的には到底無理な内容でした。断れば「冷たい」「何のための専門家だ」と非難される。こうした場面で、何が正しいのか悩み続けます。
感情的な正義vs法的な中立
「正しいことをしているのに、なぜこんなに責められなければならないのか」と思う瞬間があります。こちらは法律に従って対応しているだけなのに、依頼者の期待通りにならないと、まるでこちらが悪いかのように扱われる。中立を守るために感情を殺しても、誰もそれに気づいてはくれません。
救いはどこにあるのか
善意や正義に疲れ果てたとき、自分の感情をどこに置いていいかわからなくなることがあります。孤独感に包まれながら、それでも仕事を続けなければならない日々。そんなとき、何が救いになるのか。答えは人それぞれかもしれませんが、私は少しずつ見つけるようになってきました。
「誰かの正義」によって自分を見失わないために
他人の期待や正義に振り回されると、自分の判断が分からなくなっていきます。だからこそ、どこかで「それは違う」と声をあげることも必要です。自分を守るために、逃げること、距離を取ることを選ぶのは、決して悪いことではありません。そう自分に言い聞かせることで、少しずつ気持ちが楽になってきました。
疲れたら逃げてもいい——その選択肢の大切さ
以前は「最後までやりきることが責任だ」と思っていました。でも今は違います。疲れたら休んでいいし、限界だと思ったら一歩引くのも大切な選択肢です。体と心が壊れてしまっては、誰の役にも立てません。そう思えるようになったのは、自分の弱さを少しずつ受け入れられるようになったからです。
同業者との愚痴が唯一の救いになることも
たまに同業者と話す機会があると、愚痴のオンパレードになります。でも、それがどれだけ救いになるか。分かり合える相手がいることは、本当に大きな支えです。「ああ、自分だけじゃないんだ」と思えるだけで、少し心が軽くなるのです。