「頼れる専門家」への期待と現実のギャップ
司法書士という肩書きだけで、何でも解決してくれる専門家だと期待されることが多い。でも実際には、「それはできないんですよ」と説明しなければいけない場面が少なくない。こちらとしても冷たく突き放したいわけではない。ただ、法律上の制約がある中でできることと、できないことの境目は、言葉では伝えにくいし、相手の反応に気を遣ってしまう。私は、依頼者の表情が曇るたびに、何とも言えない罪悪感のようなものを感じるのだ。
言葉にできない「もどかしさ」
「それは弁護士さんの仕事ですね」とか「税理士に確認してください」と伝えたときに、依頼者が一瞬でがっかりした顔になる。その瞬間がどうにもつらい。まるで「この人、頼りにならないな」と思われている気がして、自分の存在意義まで問われるような気になる。もちろん冷静に考えれば、こちらに非はないのだけど、説明がうまくいかないと、どうしても自己否定に近い感情が湧いてしまう。
司法書士=何でも屋?誤解されやすい肩書き
「司法書士って、登記だけやってる人じゃないの?」とか「裁判もできるんですか?」なんて聞かれるたびに、自分の職域を説明するのがだんだん億劫になる。何でも屋のように思われがちだけど、我々にはしっかりとした法律の枠がある。その説明を丁寧にするほど、かえって「ややこしい人」と思われることもあって、まさに板挟みである。
そもそも「できること」と「できないこと」って何?
法律に基づいた職域があるとはいえ、それをどう表現するかがまた難しい。依頼者の相談内容は複雑に絡み合っていて、「この部分はOKだけど、こっちはNG」とはっきり切り分けられないことも多い。グレーゾーンに踏み込みすぎれば越権行為にもなりかねず、説明を避けたくなるのも本音である。
法的な職域の壁に阻まれる瞬間
例えば、遺産分割協議書の作成を依頼されたとき、「誰が何を相続するかの調整」はできない。それは司法書士ではなく、弁護士の仕事。でも、書類の形に整えることはできる。この曖昧なラインを一から十まで説明するのが非常に手間で、結果的に「よく分からない」と言われることがほとんどだ。
他士業との線引き問題
「それ、どこまでお願いできるんですか?」と聞かれて、返答に困ったことは何度もある。できること・できないことの間には、各士業ごとに定められた法律的な線引きがあるけれど、実務の現場ではその境界があいまいになることも多い。
行政書士との境界線が曖昧になる場面
たとえば、会社設立手続き。定款作成や法人登記は司法書士の仕事だけれど、事業内容に関する許認可の申請は行政書士の範囲。この違いを説明すると、「あれ?同じような手続きに見えるけど、なんでできないの?」と首をかしげられる。こちらとしても、法的な枠の話をいちいち説明するのは気が重い。
税理士・弁護士との連携が求められるケース
相続案件では特にこの連携が重要になる。財産評価は税理士、調停になれば弁護士。司法書士としては、そのつなぎ役としての立ち位置も求められるが、「一人で完結してくれる」と思っている依頼者がほとんど。そこに説明の壁が立ちはだかる。
説明の難しさは“感情の期待値”から始まる
法律の話をどれだけ正確に伝えても、感情の部分に届かないと意味がない。依頼者は、「困っているから来た」という前提があるので、最初から救いを求めている。そこに「できません」と水を差すのは、まるで見捨てるような行為にも見えるらしく、心苦しい。
「聞けばやってくれるんでしょ?」という無言の圧
明言はされない。でも「できるって言ってくれそうな気がしてたのに…」という空気を感じると、罪悪感が襲ってくる。しかもその場を取り繕って「検討します」と曖昧な返事をしてしまうと、後で説明のし直しになって余計にこじれる。最初の一言の重みを、毎回ひしひしと感じる。
できないことを伝えたときの“がっかり顔”に心が折れる
「え、それってお願いできないんですか?」というリアクションは、やっぱり痛い。冷たくしているわけじゃない。でも、そう受け取られてしまう。数秒間の沈黙が怖くて、つい余計なことを話してしまったり、「他の専門家を紹介します」と急いで逃げ口を作ったり…そのたびに、自分の弱さを突きつけられている気がする。
事務員にも説明が難しい「境界業務」
依頼者に説明するのも大変だが、事務員に対しても「この仕事はここまでで止めて」と伝えるのが難しい。特に経験が浅い事務員の場合、「やっていい範囲」と「やっちゃいけない範囲」の判断はグレーゾーンが多く、都度確認が必要になる。
事務的処理と判断の狭間で起きるトラブル
「この書類、提出しておきましたよ」と言われて、肝を冷やしたことがある。本人の善意で動いてくれているのは分かっているけど、そこに法的判断が必要な内容が含まれていたら、こちらの責任になってしまう。だからこそ、「そこは判断しないで」と繰り返し伝えなければならない。が、それもまた難しい。
チェック漏れではなく「説明不足」と言われる苦しみ
外部から見れば「ミス」として扱われることでも、実際は「説明していなかった」自分の責任になる。事務員との認識のズレも、根本にはやはり「説明の難しさ」がある。言ったつもりでも、伝わっていないことの多さに毎度、愕然とする。
説明しても理解されないのはなぜか?
「ちゃんと説明したのに、なぜ分かってもらえないんだろう?」そう思ったことは数え切れない。話し方が悪いのか、タイミングか、言葉選びか。反省はするが、正直どうしようもない感覚に陥ることも多い。
専門用語と日常会話のあいだにある“沼”
「登記識別情報」とか「職務上請求書」とか、専門用語をそのまま使っても絶対に伝わらない。かといって全部かみ砕くと、今度は「回りくどい」と思われる。日常会話に落とし込むことと、正確性を両立するのは、簡単なようでいてとても難しい。
「丁寧すぎて逆に伝わらない」あるある
誤解されたくない一心で、丁寧に丁寧に話す。それが逆効果で、「結局なにが言いたいのか分からない」と言われてしまうこともある。噛み砕きすぎると、要点がぼやける。このバランス感覚には、いまだに正解が見つからない。
どう伝えれば納得されるのか、ずっと迷っている
「できません」と言うだけではなく、「なぜできないのか」「どこまでならできるのか」を伝える必要がある。でも、それをどんな言い回しで、どのタイミングで伝えるかが悩ましい。説明というより、“納得”のプロセスをどう作るかの話なのだ。
紙に書いて渡しても、読まれない
丁寧にA4にまとめた資料を渡しても、大半の人は読まない。読んだとしても、理解されていない。「書いてあるでしょ」では済まされない現実がある。だからこそ、口頭での説明が大事になるのだけど、それがまた難しい。
たどり着いた“言い方の工夫”とその限界
最近は、「できること」と「できないこと」を分けて図解で説明するようにしている。これが意外と好評で、反応も悪くない。ただし、複雑なケースには応用が利かないという限界もある。工夫の繰り返しに終わりはない。
期待されるのがつらい。けど、それが救いでもある
矛盾しているけど、本音だ。「先生にお願いすれば何とかしてくれると思って」と言われるのは、重圧だけど、嬉しくもある。期待されることで自分の存在が肯定されるような感覚もあって、それがあるから踏ん張れている。
「頼りにされてる」という呪縛と誇り
頼られるのは責任を伴う。でもその責任が、自分を動かす原動力にもなっている。苦しいけど、誇らしい。矛盾した気持ちを抱えながらも、今日もまた「説明の壁」に向き合っている。
できることだけに集中していたい、という本音
「ここまではやります、それ以外は他の専門家に」ときっぱり線を引きたい。でも、それができないのが現実だ。だからこそ、自分なりにできる工夫を重ね、伝え方を磨き、少しでも依頼者にとっての“納得”を目指している。