あの日の午後、すべてが空回りしていた
司法書士として働いていると、「今日は何をやってもうまくいかないな」という日が必ずある。あの日の午後がまさにそれだった。朝からの予定が押し、電話がひっきりなしに鳴り、事務員とのやりとりもどこか噛み合わない。こんな日は、集中力も削がれ、ミスが起きる不安が募る。何を優先するべきか頭が混乱し、「自分は本当にこの仕事に向いているのか」と、思わず独り言をこぼしてしまうほどだった。
電話は鳴る、来客は来る、登記は遅れる
13時過ぎから電話が立て続けにかかってきた。内容は、急ぎの相談とクレームと、些細な確認ばかり。合間に飛び込みの来客もあり、予定していた登記申請の作業はまったく手につかなかった。しかも、事務員も慌ただしく、いつもは助かるはずのサポートもままならない。悪循環というのは本当にあるものだと痛感した。
「何やってんだろう俺…」と自問する瞬間
デスクに戻って時計を見たとき、14時45分。朝から何ひとつ予定どおりに進んでいない現実に、どっと疲れが押し寄せた。「俺、今日何してたんだろうな」と呟いた言葉が、自分でもびっくりするほど虚しかった。
司法書士という職業の”見えにくい疲労”
外から見れば、司法書士は「士業」であり、「きっちりしていて安定してそう」と思われがちだろう。だがその実、日々の仕事は細かく、責任も重く、メンタルの摩耗は大きい。とくに一人事務所や小規模体制の中で業務を回していると、その負担は本人しかわからないほど深い。
外からは見えない細かすぎる気遣い
書類一枚、日付一つ、住所の丁目ひとつを間違えるだけで、登記はやり直し。関係者の信頼は失われ、損害が発生することさえある。それを避けるために、常に「確認」「再確認」「念押し」と神経を尖らせ続けている。それなのに、結果的に誰にも気づかれないのがこの仕事のしんどいところでもある。
「正確さ」が重圧になる毎日
司法書士の業務には、「ちょっとくらい」が許されない。特に相続や会社登記など、少しでもミスがあると全体に影響を及ぼす。「完璧であること」が求められる職業というのは、思っているよりずっと精神を削る。
間違えてはいけない仕事の連続
たとえば、ある依頼人の登記で番地がひとつずれていたことで、書き直しに半日かかったことがある。その際には役所にも出向き、関係者にも再度説明を要した。しかも、こちらが悪い場合、謝罪するしかない。どれだけ神経を使っていても、ゼロミスは保証されない。ミスに対する恐怖心は、常に背後にある。
完璧を求める声と、許されない余白
依頼者の中には「早く」「安く」「正確に」という無言のプレッシャーをかけてくる人もいる。そんな期待に応えようと必死になりすぎて、自分の中で余白がなくなっていく。心のゆとりを失ってしまった司法書士は、まるでロボットのように働くようになってしまう。
事務員とのチームワークが命綱
一人でできることには限界がある。だからこそ、事務員の存在は本当にありがたい。しかし、忙しさやストレスがあると、ちょっとした伝達ミスや連携不足で関係性にも影響が出ることがある。まさにあの日の午後がそうだった。
一人雇うことの責任とありがたさ
雇っている事務員もまた、一人で何役もこなしている。電話対応、書類準備、郵送作業、来客応対…。彼女がいなければ回らないことも多い。ただ、それだけに自分の不機嫌が相手に伝染してしまうと、職場全体の雰囲気が悪くなってしまうのも事実だ。
すれ違いもある、でも一緒に進む
「その言い方、ちょっと冷たくない？」と指摘されたこともある。自分としては冷静に話したつもりでも、相手にはきつく聞こえる。だからこそ日々のちょっとした声掛けや感謝が大切なのだと、頭ではわかっていた。
午後3時、「ありがとう」に救われた
その日も焦りの中でバタバタと作業をしていた。そんな中、事務員が一言「さっきの対応、ありがとうございます。助かりました」と、ぽつりと声をかけてくれた。何気ないその言葉が、なぜか心にすっと入ってきた。
ぽつんと聞こえたその言葉
「ありがとうございます」──あまりに日常的な言葉だけれど、あの時は違った。それまで張り詰めていた緊張の糸が一瞬緩み、「俺、ちゃんとやってたんだな」と思えた。その言葉がなければ、あの日はもっと荒れた気持ちで終わっていたかもしれない。
たった5文字で、心の重さが変わった
「ありがとう」って、こんなに効くのか。自分が思っているより、精神状態は追い詰められていたのだと気づいた。その瞬間、肩に乗っていた重しが一つ外れた気がした。
なぜ「ありがとう」が沁みたのか
それは「頑張ってますね」とか「すごいですね」といった称賛とは違った。自分の存在や行動を「見てくれていた」ことがうれしかったのだ。承認されることで、人はこんなにも救われるのかと実感した。
承認欲求ではなく、“存在の肯定”だった
疲れているときほど、人は「意味があった」と思いたい。仕事の成果より、誰かの役に立っていた、気づいてもらえていたという感覚が、心に深く沁みる。
日々の積み重ねがあるからこその一言
「ありがとう」は魔法の言葉ではない。でも、日々コツコツと仕事をしているからこそ、ちゃんと心に響く。「伝えること」と「受け取ること」の両方がそろって、初めて成立する感謝の瞬間だった。
最後に：あの「ありがとう」がくれたもの
あの日の午後の一言が、今でも胸に残っている。司法書士という仕事は、成果が数字で見えにくい。けれど、誰かの生活や人生の一部を確かに支えている。その実感を思い出させてくれた「ありがとう」は、今日も自分を支える力になっている。
心に小さな火が灯った午後
弱音を吐いてもいい。愚痴が出ても仕方ない。けれど、それでも前に進むために必要なのは、「自分の仕事に意味がある」と信じられる瞬間だ。あの日の午後は、そんなささやかな希望をくれた時間だった。
そしてまた、次の一歩へ
司法書士として働くことの意味を、もう一度噛みしめながら、今日もまた目の前の仕事に向き合っている。そしていつか、誰かに「ありがとう」と言ってもらえるように、自分もまた誰かに「ありがとう」を伝えていこうと思う。
