今日は正しさより、寄り添いが効いた。

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今日は正しさより、寄り添いが効いた。

今日は正しさより、寄り添いが効いた。

完璧主義が足を引っ張る日常

司法書士という職業は、とにかく「間違いが許されない仕事」です。登記情報を一文字でも誤れば、依頼人に迷惑がかかるどころか、法務局から怒鳴られることだってあります。そんな緊張感のなかで働いていると、自然と自分の中で「正確であること」が絶対条件のように刷り込まれていきます。でも、最近ふと感じたんです。それがかえって人間らしさを失わせていたかもしれないと。

「間違えられない仕事」という呪縛

たとえば、ある日ミスを恐れるあまり、事務員さんにもピリピリしてしまいました。「この書類、日付が違うよ」と注意したつもりが、口調がきつくなっていたようで、あとで「あの言い方はちょっと…」と静かに言われてしまいました。自分では「正しいこと」を伝えたつもりでも、それが相手にとってどう響いたかまでは配慮が足りなかったなと反省しました。

ミスを恐れるあまり、感情を削ぎ落とす

忙しいときほど、感情を切り離して機械のように仕事をこなそうとしてしまいます。まるで自分が自分じゃないような感じ。クレームを避けたい、責任を問われたくない、ただそれだけのために「心」を置き去りにしていたことに、ある午後の出来事で気づかされました。

依頼人との温度差に戸惑う午後

ある女性の依頼人が、相続の件で相談に来られた日。必要な戸籍や登記手続きの説明を、いつものように淡々と行っていたのですが、どうにも話がかみ合わない。何度も「それで、どうすればいいんですか?」と聞かれました。「いや、だから必要書類は…」と繰り返す自分。でもそのとき、ふと気づいたんです。相手は「手続きの説明」を聞きに来たんじゃなくて、「心の整理」の仕方を探していたんだと。

法律よりも「安心」が欲しい人たち

法的に正しいことを説明しても、それがそのまま安心にはつながらないことがあります。特に相続や後見、離婚など、人生の節目に関わる案件では、依頼人が求めているのは「情報」ではなく「安心」や「共感」なのだと痛感しました。「手続きが済めば終わり」じゃないんですよね、依頼人にとっては。

「正しい説明」をしても伝わらないとき

「この戸籍と印鑑証明があれば、登記できますよ」と正確に説明しても、依頼人の顔に不安が残る。そんなとき、「他にも何か心配なことはありますか?」と聞いてみたら、「母が亡くなった実感がなくて…」とぽつり。ああ、今までの説明は彼女の求める答えじゃなかったんだなと、深く反省しました。

図解や例え話も虚しく響く瞬間

図を描いて「これが法定相続分で…」と一生懸命説明しても、それが相手の心に響かないことがあります。論理ではなく感情が先に立っている人には、どんなに丁寧なスライドも説明も、ただの「騒音」になってしまうのです。

相手の沈黙が教えてくれること

一生懸命話しているのに、依頼人がうつむいて黙っている。それは「理解している」からじゃなく、「受け止めきれない」からかもしれない。そんなとき、言葉を増やすのではなく、言葉を減らす勇気も必要なんだと思いました。

そんな日に気づいた「寄り添い」の力

その日の夕方、いつもなら事務的に処理して終わる案件を、少しだけゆっくり話を聞いて終わらせました。「もうちょっとだけ話してもいいですか?」と依頼人が言ったとき、こちらも「もちろん」と自然に返していた。その後、「なんだか、ほっとしました」と言われた時、正しさよりも温かさが効いたんだと実感しました。

黙って聞くことが最大のサポートになる場面

司法書士として何かアドバイスをしなきゃ、という思いに縛られていたけれど、ただうなずいて、聞き役に徹することが一番のサポートになることもあります。答えを出さなくても、「この人は味方だ」と思ってもらえることがある。それだけで依頼人の表情が和らぐ瞬間があります。

専門家の正論が、時に人を傷つける

「法的にはこうですから」と言った一言が、依頼人の気持ちを切り捨てることもある。もちろん正確な説明は必要だけど、それを「正論」として突きつけるような伝え方をしていたことに、自分自身で嫌気がさしました。

正しさが冷たさに変わる一線

「それは法律的に違いますよ」と言った瞬間、依頼人の顔が曇ることがあります。その反応を見るたび、「もっと別の伝え方があったかも」と後悔する。法律を盾にしてしまう自分が、いつの間にか依頼人との距離を広げてしまっていたと気づかされます。

「役に立てた」と感じた瞬間

今日の相談では、特に難しい案件でもなかったし、珍しい事例でもなかった。でも、「ありがとうございました。少し前に進めそうです」と言われたとき、書類一枚以上の価値がそこにあった気がしました。きっとそれは、法的な支援というより、人としての共感が届いたからだと思います。

法律的には何もしていないけど

手続きを進めたわけでもない、登記が完了したわけでもない。けれど、その時間が「相談者にとって必要な時間だった」と思える日がある。それって司法書士の本来の役割にも関係してくるんじゃないかと、最近は思うようになりました。

依頼人が涙ぐんだ、その理由

「ちゃんと聞いてくれたから」と、最後に目に涙を浮かべてくれた依頼人。そのとき、「正しさ」なんて一歩引いてもいいから、「この人の力になりたい」という気持ちをもっと前に出していこうと、心の中でそっと決めました。

正確さと温かさのバランスを探して

司法書士が感情で仕事をしてはいけない場面もあります。だけど、それでも「人としての温度」を持って対応することは、仕事の精度にも繋がってくると感じます。正確さと温かさ、そのバランスを取ることこそ、プロとしての腕の見せ所かもしれません。

寄り添いすぎて自分が壊れそうになる時

正直、全部の依頼人に寄り添っていたら、こちらが潰れてしまう日もあります。「プロなんだから割り切って」と言われたこともあります。でも、その割り切りができなかったからこそ、今日の気づきがあったのかもしれません。

「甘さ」と「優しさ」は違う

依頼人にとって耳ざわりの良いことばかりを言うのは、ただの甘さ。それでは信頼は得られません。でも、真実を伝える時にも、相手を傷つけない「優しさ」のある言い方はできる。その違いを見極めながら、これからも仕事をしていきたいです。

プロとして譲れない線引き

最終的にどこまで寄り添っても、登記が間違っていたら意味がない。その線だけは譲れない。でも、そこに至るまでの過程で、「人としてどう接するか」は常に意識しておきたい部分です。「法律の人」である前に、「信頼される人間」でいたいと、そんなふうに思うようになりました。

司法書士も人間です

愚痴ばかりで恐縮ですが、司法書士も人間です。正しさを追求する日もあれば、寄り添うことに全力を注ぐ日もある。どちらも必要で、どちらかだけでは務まらない。そんなバランスの中で、今日も「少しだけ誰かの力になれた」と感じられる日があることを、ちょっとだけ誇りに思っています。

愚痴が出る日は、誰かを支えた日かもしれない

仕事の終わりに「疲れたなぁ」とぼやいてしまう日は、たぶん、誰かの話をちゃんと聞いた日です。正確さも大事だけど、そんな寄り添いが、司法書士という仕事を続けていく支えにもなっているのだと、最近ようやく気づきました。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

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