優しさで自分をすり減らす前に

未分類

優しさで自分をすり減らす前に

気遣いと遠慮でいつの間にか限界を超えていた

気づけば、疲れが慢性化していました。気遣いも遠慮も「自分が頑張れば何とかなる」と思ってしまうクセがあるせいか、誰にも助けを求められずにどんどん仕事を抱え込んでいました。しかも、誰にも文句を言わないで頑張ってる自分に、少し酔っていた節すらあります。でも、それは自己満足であって、結局、事務所の品質も自分の健康も削っていただけだったんです。

「手伝って」と言えない日々

事務員はひとり。彼女も彼女で、別の作業に追われているから、ちょっとしたことでも「これお願いできる?」と頼むのがためらわれる。自分でやったほうが早いし…なんて考えてしまうと、全部自分の仕事になってしまう。でも、その“遠慮”の積み重ねが、気づいたらキャパオーバーの原因になっていました。

自分のキャパを見誤るやさしさ

「これくらいならできるだろう」「もう少し頑張れば終わる」と、いつも自分の限界を少しだけ超えて作業している感じがありました。でも、人間のキャパって、そんなに簡単に拡張できるもんじゃない。やさしさという名の無理が続くと、ある日突然、心も体も動かなくなる。そうなる前に気づくべきでした。

なぜ司法書士は“断れない人”が多いのか

司法書士という仕事は、どうしても「人の困りごと」に向き合うことが多いので、自然と「断れない」性格の人が多い気がします。私自身もそうです。できることはしてあげたい。困ってるなら助けてあげたい。でも、すべてに応えていたら自分が壊れます。

依頼者の期待に応えすぎる心理

「こんなに困ってるんです」「急ぎでなんとかならないでしょうか?」と言われると、ついスケジュールを後ろ倒しにしてでも入れてしまう。それが人助けになると信じてきたけれど、結果的に他の案件が遅れて、誰も幸せにならなかったことも一度や二度ではありません。

「いい人」に見られたい職業病

司法書士として独立していると、悪評が命取りになるという不安もあります。「あの先生、冷たかった」なんて言われたらどうしようと、つい“いい人”でいようと頑張ってしまう。でも、無理して“いい人”でいると、必ずどこかで無理が祟る。それは身をもって痛感しました。

誰も気づいてくれない“限界サイン”

たぶん、周りからは「いつも元気そう」「よく働いている」と見えていたんだと思います。でも、こっちはもうギリギリ。限界って、外からじゃわからないものなんですよね。だからこそ、自分で気づくしかない。

事務員にさえ気を遣ってしまう

事務員もよくやってくれてます。むしろ、申し訳ないくらい。でも、その「申し訳なさ」が、頼むことへのハードルになっている。「これお願いしたいけど、忙しそうだし…」と我慢して、自分でやる。これが毎日続くと、そりゃパンクもします。

疲れていても笑ってしまう癖

しんどくても「大丈夫ですよ」と笑ってしまう。これは昔からの癖です。でも、こういう“我慢グセ”は、周囲に本当の状態が伝わらない原因になります。気づいてほしいと思ってるくせに、気づかれたくない。そんな矛盾がずっとありました。

地方の事務所ならではの孤独感

都市部なら同業のつながりも多いと思いますが、地方の事務所はとにかく孤独です。相談できる相手がいないのは、想像以上にしんどい。黙って抱え込んで、自分の中で処理するしかないんです。

相談できる同業者がいない現実

同業の勉強会なんかもたまにありますが、実務レベルで本音で話せる場って少ない。ましてや「疲れてます」とか「助けてほしい」なんて言える空気ではない。自分の弱さをさらけ出す場がないのは、本当に苦しいものです。

「あの先生にお願いすれば大丈夫」の重圧

地域である程度の信頼を得ると、「この人に任せれば安心」と思われるようになります。それ自体はありがたい。でも、その期待に応えようとしすぎると、自分を追い込む原因にもなります。「なんとかしてあげたい」と思う一方で、「なんで私だけ…」と感じることも正直ありました。

遠慮と気遣いが引き起こす悪循環

頼まれて断れずに仕事を受け、時間に追われ、ミスや遅れが出て、自分を責める。こうした負のループに、何度もはまってきました。気遣いが行き過ぎると、善意も毒になるんです。

キャパオーバー→失敗→自己嫌悪

忙しさのピークのとき、登記の申請書類の一部に不備が出てしまい、法務局からの電話で青ざめたことがあります。あのときは自分が情けなくて、悔しくて、一人で机を叩きました。全部、自分のキャパを見誤ったせいでした。

「やってあげたい」が自分を苦しめる

誰かの役に立ちたい。その気持ちは大切です。でも、それが自分を壊してまでやるべきことなのか、今はよく考えるようにしています。「やさしさ」は、使い方を間違えると刃になります。

“やさしさ”の境界線を引くことの難しさ

やさしさは美徳だと思います。でも、それをどこまで出していいのか、その線引きがとても難しい。私も未だに迷うことばかりです。

頼まれごとの断り方に悩む

「急ぎでやってくれませんか?」「ちょっと見てくれるだけでいいので」…こういう依頼、日常茶飯事です。断るのは冷たいと思われそうでつらい。でも、断らなければ他の業務にしわ寄せが行く。苦しい選択の連続です。

“断る勇気”が持てない本当の理由

自分でも「断れない性格」だと思います。でも、それは優しさというより、嫌われたくない、失望されたくないという恐れなんだと思います。そこを認めてから、少しだけ「NO」と言えるようになりました。

自分を守る気遣いもある

気遣いを他人にだけ向けていたら、自分がすり減るばかりです。最近は、「自分に向けた気遣い」も少しずつ意識するようになりました。自分の心と体を守るのも、大事な仕事の一部です。

優先順位をつける訓練

「すべてに全力投球」は、もう無理だと諦めました。今は、緊急性や重要性でタスクに優先順位をつけて、後回しにする勇気も持つようにしています。完璧主義を手放すことで、随分楽になりました。

感情のガス抜きを習慣にする

夜の散歩、日記を書く、音楽を流す――どれもささいなことですが、こういう“ひとり時間”で気持ちを吐き出すことで、心のバランスが保てています。弱音を外に出すって、大事です。

実体験:優しさが裏目に出た瞬間

いくつかの経験を通じて、「善意のつもりが迷惑になる」ことがあると学びました。そのときはショックでしたが、今となっては大事な教訓です。

手続き遅延でクレームを受けた話

あるお客様の依頼を「急ぎ対応します!」と引き受けたものの、他の業務も立て込んでいたせいで遅れてしまい、結局「口だけだったんですね」と言われてしまいました。あの言葉は今も忘れられません。

事務員にも八つ当たりしそうになった日

忙しさのピークでイライラしていたとき、何でもないミスに対して事務員にきつく言いそうになって、ハッとしました。「こんなことを言うために、仕事してるわけじゃない」と自分を戒めました。

“弱音を吐ける場”の必要性

がんばるのは大切だけど、ひとりで抱え込んではいけません。もっと「弱音」を言える場所があれば、救われる人は多いと思います。

愚痴を言える同業コミュニティの価値

最近、小さな司法書士の勉強会に顔を出すようになりました。知識の共有以上に、「それうちもあるよ!」という共感がありがたかった。吐き出すだけで軽くなることもあるんです。

ひとり事務所だからこそ「書く」ことの意味

こうして文章にすることで、自分の心の整理にもなります。弱音を“記録”するのは、ある意味、自分へのエール。誰かの役に立つかもしれないと思えば、書く手も止まりません。

まとめ:やさしさと向き合うということ

やさしさは人を救うこともあれば、自分を追い詰めることもあります。でも、それに気づけたとき、少しだけ心が軽くなりました。これからも迷いながら、でも、自分にもやさしくありたいと思っています。

やさしさは自分にも向けるもの

「他人を大切にするように、自分も大切にしていい」。この言葉を、今の私はようやく信じられるようになりました。自己犠牲だけでは続かない。司法書士の仕事も、人生も。

まずは「無理してる」と気づくことから

我慢が当たり前になると、「今の自分は無理してる」とすら気づけなくなります。まずはそこに気づくこと。それが、自分を守る第一歩になると、今では思っています。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

未分類