先生って偉いんでしょ?って言われて、言葉に詰まった日の話。
「偉い人」って誰が決めたんだろう
ある日、近所の小学生に「先生って偉いんでしょ?」と聞かれて、ふと口が止まった。偉いかどうかなんて、普段まったく意識していない。ただ、真面目に仕事して、締切に追われ、時々理不尽なクレームを受けながら、それでも「なんとか今日を乗り切った」と思いながら帰路につくだけの日々。その一言に、自分の存在が試されたような気がして、思わず黙ってしまった。
子どもに言われた一言がずっと引っかかっている
「偉いんでしょ?」という言葉は、褒め言葉のようでいて、どこか皮肉めいて聞こえた。私自身、偉くなりたくてこの職を選んだわけじゃない。社会の一部として必要とされる仕事だと信じてやってきただけだ。でも、他人の目からは“先生”という肩書きが先に来るらしい。純粋な疑問だったとしても、無意識に「先生=偉い」という刷り込みがあることに、なんとも言えないもやもやを感じた。
そもそも司法書士って偉いのか?という問い
たとえば医者や弁護士のように、世間的に“偉い”とされがちな職業はある。でも司法書士はどうか。確かに、相続や不動産登記で頼りにされることもあるし、「法律の専門家」として認知はされている。でも現実は、登記ミスがあれば責任を問われ、電話対応に追われ、待ってくれない締切と日々格闘している。正直、「偉さ」とは無縁の世界にいる気さえする。
人から「先生」と呼ばれることの違和感
依頼者や関係者から「先生」と呼ばれるたびに、正直なところ、なんだか落ち着かない。特に、仕事に失敗しそうなときや、何かを忘れてしまったときに限って、きっちり「先生」と呼ばれてしまう。そのたびに「自分なんかが“先生”でいいのか」と胸の中でつぶやく。
尊敬されているのか、ただの形式か
「先生」という呼び方が、本当に尊敬からきているのか、それともただの慣習なのか、未だによくわからない。心から信頼してくれる人もいれば、最初から「どうせ先生なんて…」という目で見てくる人もいる。そんな温度差の中で、「先生」という言葉の重みがどんどん揺らいでいく。
実際の仕事は雑用の連続だったりする
相続登記の準備で市役所を何往復もし、戸籍の不備に振り回され、ひとつの書類のために丸一日が終わる。そんな日も珍しくない。「もっと専門的な仕事をしているんですよね?」と聞かれても、「いや、今日はコピー用紙の補充と電話番がメインでした」なんて、とても言えない。
現実の業務と「先生」のギャップ
「先生」って、もっと堂々としていて、余裕のある大人のイメージがあった。でも現実の私は、朝から胃が痛くなりながら申請の不備に追われ、夜にはどっと疲れてソファに倒れ込む日々。そんな姿を見たら、誰も「偉い」なんて思わないだろう。
泥臭い実務と地味な調整
仕事の大半は「人と人の間をつなぐ調整役」。相続人同士の意見のすり合わせ、役所とのやり取り、急ぎの対応。どれも地味だけど、放っておくと後でトラブルになる。だから、細かいところに神経を張り巡らせる。それって「偉さ」というより「気苦労」だと思う。
「そんなことまでやるんですか?」と言われたこと
以前、依頼者から「え、そんな雑務まで先生がやるんですか?」と言われたことがある。ちょっと傷ついたけど、それが現実。人手もないし、事務員さんも他の作業に追われている。必要なら、私がFAXも送るし、ホッチキス留めもやる。誰もやってくれないなら、自分でやるしかない。
期待と現実のあいだで揺れる自分
「先生って偉いんでしょ?」という一言が、どこか自分にとっての期待値のように感じる。でも実際の自分はその理想像からはほど遠い。自信がないわけじゃないが、誇りを持って胸を張れるような気分でもない。そのギャップに、毎日小さく傷ついている。
「偉くない自分」を認められない瞬間もある
「自分なんて大したことない」と思ってしまう瞬間が、正直一日に何度もある。でもそれを認めてしまうと、全部崩れてしまいそうで怖い。だから、なんとか「やれてるフリ」を続けている。それって、やっぱり苦しい。
本音は「ただの人」です
家に帰れば、風呂掃除を忘れて怒られ、食器洗いもサボってしまう、ただの中年男。それが私の本当の姿。「先生」なんて看板は、外に出るときだけの仮面みたいなもので、内側は結構ボロボロだったりする。
「偉いでしょ?」と聞かれたときの正解って?
あの日の問いに、今でも答えは出ていない。「うん、偉いよ」と笑って答えればよかったのか、それとも「いや、そんなことないよ」と謙遜すればよかったのか。どちらも本音ではない気がして、結局あいまいに笑ってごまかしてしまった。
誤魔化さずに答えられる日は来るのか
「先生って偉いんでしょ?」という問いに、ちゃんと向き合える日が来るのかはわからない。でも、少なくとも自分の中で、「何のためにこの仕事をしているのか」くらいは、ぶれないようにしたい。偉くなくても、必要とされている自覚はあるから。
プライドと謙虚のバランスをどう取るか
胸を張って「自分は偉い」と言える日はきっと来ない。でも、謙虚すぎて自分の価値を下げすぎても、仕事に支障が出る。ちょうどいいバランスを見つけるのは難しいけど、せめて「背伸びしすぎない自分」でいたいと思っている。
後輩や志望者に伝えたいリアル
これから司法書士を目指す人たちには、もっと現実的な話をしてあげたい。誇りを持つことは大切だけど、「偉さ」を求めすぎると、どこかで疲れてしまう。誰かの役に立てることに価値を感じられれば、それで十分じゃないかと思う。
華やかさより地味さを受け入れる覚悟
登記の裏方、相続の調整役、書類の山と向き合う毎日。華やかさはない。でも、その地味な積み重ねが、誰かの不安を軽くしたり、生活を支えたりしている。それを「誇り」と呼んでいいなら、私は胸を張って「偉くない先生」でありたい。
「偉さ」より「向き合い方」が問われる
結局、「偉いかどうか」なんてどうでもいいのかもしれない。それよりも、「目の前の依頼者とどう向き合うか」「自分の仕事にどれだけ誠実でいられるか」の方が、よほど大事だ。今日もまた、黙って机に向かう。それが、私の答えなのかもしれない。