“先生”って呼ばれるたびに、ちょっとモヤっとする話

“先生”って呼ばれるたびに、ちょっとモヤっとする話

「先生」と呼ばれる日常に潜む違和感

司法書士という肩書きがあると、やたらと「先生」と呼ばれる。でも、自分でそう呼ばれたいと思ったことなんて、正直一度もない。むしろ、その呼び方に軽いプレッシャーを感じることもある。誰かの人生に関わる仕事だからこそ、信頼の意味を込めて「先生」と言ってくれているのはわかる。だけど、その言葉が時に“理想像”を勝手に押し付けてくるのがしんどい。

肩書きと中身のギャップがしんどい

「司法書士」という職業には、なんとなく“ちゃんとしてる人”というイメージがあるようだ。でも実際は、焦って電車に乗り遅れるし、たまには納豆で済ませる晩ご飯もある。そんな自分を見せたら、幻滅されるんじゃないかと思って、つい背伸びをしてしまう。「先生」と呼ばれるたびに、その背伸びが重くのしかかる。

世間が思う“先生”像と、現実の自分の乖離

一般の人が持つ「先生」のイメージは、冷静沈着でお金にも困ってなさそうで、人生経験も豊富……そんな完璧超人。でも、実際には請求書の計算ミスもすれば、領収書が見つからずに焦ることもある。理想像とのギャップを埋めることに必死になって、時に本来の自分がどこに行ったのかわからなくなる。

立派に見られがちだが、コンビニの支払いすらキツい日もある

立派そうに見えるけれど、月末は資金繰りに追われてコンビニでの支払いにヒヤヒヤすることも。そんなリアルは誰にも見せられないし、誰も知りたがらない。「先生」は余裕があって当然という空気が、無言のプレッシャーになって心を締めつける。

依頼人の期待とプレッシャー

依頼人からの「先生なら全部わかるでしょ?」という言葉。ありがたいようでいて、実はけっこうキツい。人の問題を背負って、完璧な回答を求められる。ミスできない、弱みを見せられない。その緊張感が、毎日じわじわと心を削っていく。

「先生なら全部わかるでしょ?」の圧にやられる

どんなに調べても、ケースバイケースな問題ばかり。なのに、「これはどうなんですか?」「前の人のと同じでしょ?」と軽く言われるたびに、自分が試されているような気分になる。プロとして応えなければという責任感と、答えられない恐怖が交錯する。

知識も人間関係も、そんな万能じゃない

登記の知識はあっても、人間関係のもつれや相続争いを一発で解決できるわけじゃない。それでも「先生」に相談すれば、何とかしてくれると思われている。「そんな魔法の杖、持ってないよ…」と心でつぶやきながら、笑顔をつくる毎日。

“先生商売”という演技と現実のジレンマ

「先生らしくあること」が求められる商売。でも、自分自身はただの一人の人間だ。その演技を続けることに疲れてしまう瞬間がある。

求められるのは知識より安心感?

本当のところ、依頼人が求めているのは正確な情報というより「この人に任せれば安心」という感覚なのかもしれない。でもそれがまたしんどい。根拠のない安心感を提供することが、仕事の一部になってしまっている。

不安を受け止める“仮面”としての先生役

相談者の不安をそのまま受け止めると、自分が潰れてしまう。だから、仮面をかぶるように「大丈夫ですよ」と言う。だけど、仮面をかぶっている時間が長すぎると、どこまでが本当の自分なのかわからなくなってくる。

失敗は許されない空気感

「先生」の失敗は許されない。失敗すれば「先生のくせに」と言われる。自分の存在が、信用というガラス細工の上に立っている気がする。

「先生がミスしたら困る」の裏にある無言の重圧

大きな失敗じゃなくても、「あの人、頼りないよね」と噂が立つだけで、今後の仕事に響く。常にピリピリとした緊張の中で、完璧を演じ続けなければいけない職業。それが司法書士という“先生業”の現実。

自分の中の“先生像”が邪魔をする

世間の期待だけでなく、自分自身がつくりあげた「先生像」にも縛られてしまっている。

完璧でなきゃいけない、という呪縛

自分でも無意識のうちに「こんなことで悩むなんて先生失格だ」と責めてしまう。誰もそこまで求めていないのに、自分が自分を追い込んでいる。

弱音が吐けないから、どんどん疲れていく

「先生」という仮面を外して、ただの人として愚痴りたい。でも、誰にも見せられない。そんな日々を繰り返すうちに、疲れがどんどん蓄積していく。

それでも「先生ですね」って言われたい自分もいる

「先生」って呼ばれてイヤだと思いながらも、どこかで求めている自分がいる。矛盾してるけど、それもまた本音。

承認欲求と反発心の間で揺れる気持ち

「もう呼ばなくていいよ」と思いながら、「先生のおかげです」と言われるとちょっと嬉しい。その複雑な気持ちの揺れが、この仕事の根っこの部分なのかもしれない。

「先生」と呼ばれなくても生きていけるように

結局のところ、大切なのは「呼ばれ方」よりも「在り方」。仮に誰からも“先生”と呼ばれなくなっても、誰かの役に立てるならそれでいいと思えるようになりたい。

呼ばれ方より、大切にしたい在り方

自分が納得できる仕事をしているか。相手の気持ちをちゃんと受け止めているか。そういった“中身”の方が、呼ばれ方よりよっぽど大切なんだと思う。

“先生”に振り回されないためにできること

呼び方にモヤモヤするくらいなら、自分自身の「軸」を見つけるほうが大事。誰かの「先生」である前に、自分にとっての“自分”でいられるようにしたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

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