割り切ったつもりが、感情に飲まれる日

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割り切ったつもりが、感情に飲まれる日

「感情を排除する」のは理想論でしかなかった

司法書士としてやっていくには、事務的に、冷静に、感情を挟まず対応することが求められる。そう教わってきたし、自分でもそれがプロの姿だと信じていた。でも、現場で日々案件をこなしていくと、その理想論がいかに脆く、非現実的なものか思い知らされる。時には遺産相続で争う家族の間に立たされ、時には書類のミスで相手から理不尽に怒鳴られる。感情を「持ち込まない」なんて、無理なんじゃないかと思う日がある。

冷静な判断が求められる仕事…のはずなんだけど

業務の中では「感情的にならず、事実と法律に基づいて淡々と進める」のが基本。そう言われれば正論だし、間違っていない。でもね、相手が泣き出したり、怒鳴ってきたり、こっちの言い分を聞く気もない状態で「冷静に対応しろ」って、こっちだって人間だ。心が揺れないわけがない。机上では理屈通りでも、現実はもっとドロドロしてる。

机上の理想と現場のギャップ

たとえば、ある高齢者の相続案件で「兄とは話したくないから、全部あなたが処理して」と依頼された。書類を進めていくと、今度はその兄から「なんで俺を無視するんだ」と怒鳴られる。理屈では「間に立つ役割」として処理できるけど、現場ではどうしたって感情が流れ込んでくる。理想と現場の乖離に、ため息しか出ないこともある。

どこまでが“業務”で、どこからが“人間”なのか

境界線が曖昧になる瞬間がある。業務として冷静に対応しようとしても、相手の背景や想いに触れると、どうしたって「人間」としての感情が湧いてくる。自分の中でも、「これは業務だ」と割り切るスイッチが、うまく入らないことがある。そんな時、「自分、司法書士として失格なんじゃないか」と思ってしまうのだ。

感情を押し殺すことでこぼれていく何か

感情を一切出さずにやろうとすればするほど、逆にストレスは蓄積する。言いたいことを飲み込み、顔色を変えずに対応しても、帰宅した途端どっと疲れが出る。感情を無理に抑えることって、実は「効率的」ではないのかもしれない。笑顔を作るよりも、何も感じないふりをする方が、ずっと消耗する。

感情を出すと「プロ失格」なのか

一度、相手のあまりの態度に声を荒げてしまったことがある。「こっちは仕事でやってるんです!」と。後悔した。けれど、その一言で空気が変わり、相手が逆に謝ってくれた。あの瞬間、「感情を見せる=悪」じゃないんだと思えた。完璧に感情を排除することが、必ずしもプロの姿とは限らない。

一番しんどいのは、相手じゃなくて自分だった

正直に言うと、イライラした相手よりも、自分自身と向き合う方がよっぽどしんどい。なんであの時我慢できなかったのか、なんであんなに引きずるのか。感情を整理するのは、自分の中の「人間」としての部分を受け入れる作業でもある。逃げたくなる。でも逃げたら、もっと苦しくなる。

「それくらいわかってよ」って、こっちが言いたい

「説明してもわからない」「何度も言ってるのに通じない」…そんな時、こっちの方が言いたくなる。「それくらい、察してよ」と。でも、司法書士って立場上、相手の“無理解”にも冷静に対応しなきゃいけない。それが一番きつい。人の話を聞くばかりで、自分の声はどこにも出せない気がしてくる。

人の事情に巻き込まれる側の疲弊

ある日、遺産分割で揉めている兄妹の間に立って、何時間も電話と調整。疲弊しきって夜に一人酒を飲みながら、ふと「これ、誰の問題だったんだっけ」と思う。自分は法律家として関わっているのに、気づけば心も巻き込まれていた。これは、意外と多くの司法書士が抱えてる“あるある”なんじゃないか。

「やってられない」と思う瞬間

書類の不備で法務局に何度も足を運ばされる時。理不尽なクレームを浴びたあと。夜中に相続の相談がLINEで届いた時。そんな時は正直、「もうやめたい」「やってられない」と思う。やる気がある日もある。でも、ない日の方が多い。それでも続けてる自分を褒めてあげたいと思う日もある。

感情に飲まれる日もある。でも、それでいいときもある

感情を出さずに仕事をしてきたけれど、時には感情に流されてしまう日もある。でも、それがあったから気づけたこと、救われたこともあった。完全無欠な司法書士じゃなくても、少しだけ「人間らしい」存在でいる方が、相手にも届く気がする。感情って、隠すだけが能じゃない。

あの日の涙は、必要だったのかもしれない

ある依頼者が、「先生、ありがとう」と言って泣いた日。こちらももらい泣きしそうになった。「仕事なのに泣くなんて」と思う自分と、「こんな日があるなら続けてよかった」と思う自分がいて、複雑だった。でも、あれは必要な涙だったと思う。感情は、共感の証だ。

自分の弱さを否定しないという選択

弱い部分、揺れる部分、腹が立つ部分。それらを全部無理に消すより、「そんな自分もいる」と受け入れた方が、心がラクになる。プロ意識とは矛盾しているかもしれない。でも、その矛盾こそが“自分らしさ”なんじゃないか。そう思えるようになってから、少しだけ仕事がしやすくなった。

冷静さの中にも、心があっていい

結局、冷静であることと、感情を持つことは矛盾しない。心を込めた説明もできるし、相手を思って強く言うこともできる。司法書士としての自分と、人間としての自分。その両方を抱えて働くのが、この仕事のリアルな姿だと、最近は少し思えるようになった。

司法書士も「人間らしく」あっていい

「先生」と呼ばれる仕事だけど、神様じゃない。ただの人間。だから、感情に飲まれてもいいし、揺れてもいい。むしろ、それがあってこそ見えるものがある。司法書士の世界も、もう少し“感情”に寛容になっていいと思う。そういうメッセージを、後進にも伝えていきたい。

感情を仕事に持ち込まない、ではなく、うまく付き合う

これからは「感情を消す」ではなく「感情とうまく付き合う」方向で仕事をしていきたい。完璧を目指すより、誠実でいたい。理想を持つのは大事だけど、それに縛られて潰れるくらいなら、もっと柔軟に、もっと自分らしく働ける方が、ずっと長く続けられる。

だからこそ、信頼される存在になれる

感情を持つことで、寄り添う力が生まれる。相手にとっては「話を聞いてくれた」「わかってくれた」ことが何より大きい。法律の正しさだけでは救えない場面がある。そんな時、「この人に頼んでよかった」と思ってもらえる司法書士でありたい。それが、最終的な自分の軸になっている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

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