「守る」は正しいことなのか?
司法書士として働いていると、誰かを「守る」ことが日常になります。登記の依頼を受ければ、権利を守るために動き、相続の場面では争いを避けるために助言する。気づけば「人を守る」のが当然の行動になっていました。しかし、ふと立ち止まったとき、「自分は本当に守れているのか?」という疑問が頭をもたげてきます。正しいと思っていた行為が、実は誰かを追い詰めていたのではないか。そんなことを考えた出来事がありました。
善意から始まった行動のつまずき
ある日、相続の相談で高齢の姉妹が事務所にやってきました。妹さんが「姉に騙されている気がする」と言い、姉は「私は正当な相続分を主張しているだけ」と言う。私は中立の立場から丁寧に説明し、法的に正しい方向でまとめようと努力しました。けれど、最後には妹さんから「先生も結局、姉の味方なんですね」と吐き捨てられたのです。私は彼女を守ろうとしていたのに、その意志がまるで届いていなかった。今でもあの言葉が頭を離れません。
「助けること」が義務に変わった瞬間
司法書士という仕事は、依頼された時点で「助ける側」としての役割を背負います。でも、時にそれが義務感に変わってしまうと、自分自身の感情や限界を置き去りにしてしまう。心のどこかで「断ってはいけない」「自分が何とかしないと」と思い込んでしまうのです。そうなると、相手のために動いているようで、実は自分の“正義感”を押しつけているだけのこともある。そこに気づくのに、私は何年もかかりました。
現場での「守る」は、時に重荷になる
実際の業務の中で、「守る」行為が裏目に出ることは少なくありません。善意から始まった対応が、相手にとってはありがた迷惑だったり、期待がどんどん膨らんで自分が潰れそうになったり。現場は理想論では回りません。現実の「守る」は、重くて苦しいのです。
依頼者のために動いた結果、クレーム地獄
過去に、不動産の名義変更を急ぎたいという依頼者に対して、法務局との調整を必死で行い、予定より早く処理を終えました。ところがその後、「なんでこっちは何の説明もないまま終わったのか」とクレームが。説明はしていたはずなのに、相手の期待と私の配慮がずれていた。結果的に、私は「信頼を裏切った人」として扱われ、疲弊しました。
感謝よりも「当然」という反応
一番つらいのは、「やって当たり前」と思われることです。こちらが休日出勤して対応しても、「そちらの都合でしょ?」という態度。仕事ですから当然の部分もある。でも、人間ですから、少しは「ありがとう」と言ってほしい。守る側に回り続けると、気づけば自分の気持ちの居場所がなくなってしまうのです。
説明しても伝わらないときの無力感
法的な言葉や制度は、いくら噛み砕いて説明しても、相手の「感情」に届かないことがあります。「そんなの関係ない」「私は納得していない」と言われたら、もう手も足も出ない。論理ではなく“感情の壁”にぶつかったとき、自分の無力さを痛感します。それでも「何とかしなきゃ」と思ってしまうのが、また自分を苦しめる原因なんですよね。
スタッフを守るつもりが、苦しめていた話
私の事務所には、長年一緒に働いてくれている事務員さんがいます。家庭の事情もよく知っているし、できるだけ働きやすいように配慮してきたつもりです。でも、最近ふと思ったのです。もしかして、その配慮がかえって彼女を「成長させない理由」にしてしまっているんじゃないかと。
優しく接した結果、甘えが生まれた
忙しいときに「この案件、お願いできる?」と頼むと、「ちょっと無理です」と返ってくる。そのたびに「じゃあ、私がやるよ」と言ってしまう自分がいます。最初は優しさだったけれど、今はお互いにとってよくない状況かもしれない。守るつもりが、依存関係を作ってしまっていた。これも一種の“壊す”なんだと、最近感じています。
仕事の負担を一人で抱え込んでしまう構造
結局、事務所全体の責任は私にあるし、任せきれない性格も相まって、なんでも自分でやってしまう。すると、ますますスタッフは動かなくなる。この負のループを断ち切らないといけないのに、「それでも守りたい」という感情が邪魔をする。責任感と情のはざまで、自分自身が潰れてしまいそうになります。
「正しさ」で関係を壊すという矛盾
司法書士として「正しさ」を軸に判断するのは当然です。でも、世の中の人間関係は、必ずしも正しさだけでは回っていません。むしろ、その正しさがトラブルを大きくすることもあります。正義が武器になることさえあるのです。
家族の相続争いに「中立」で介入しても
相続の場で、「私は中立です」とどれだけ伝えても、誰かにとっては「敵」に見えることがあります。特に感情的に揉めているときは、事実や法ではなく「味方かどうか」で判断されてしまう。そのたびに、「自分は何をしているのだろう」と虚しくなるのです。
誰にも感謝されない第三者の立場
調停や話し合いで間に立ち、双方の主張を整理し、最善の着地点を探っても、終わってみれば「先生のせいで丸く収まらなかった」と言われる。誰も悪くない。でも、誰も感謝しない。それが、第三者である私たちの現実です。
「あなたのせい」と言われる理不尽
たとえ自分の仕事にミスがなくても、結果が気に入らなければ責任を押し付けられる。理不尽です。でも、それが日常です。理不尽に耐えることで「守る」ことが成り立っている。そんなこと、本当は誰も教えてくれませんでした。
自分を守ることもまた、他人を守ること
いろんな経験を経て、最近ようやく気づいてきたのが、「自分を守らないと、誰も守れない」ということです。無理をし続けて壊れるくらいなら、最初から無理をしない方がいい。そのことを、もっと早く知りたかった。
無理をしないという選択
「申し訳ないですが、対応できません」そう言えるようになるまでに、私は十数年かかりました。断ることが悪だと思っていた。でも、限界を越えて倒れたら元も子もない。今は、無理をしないことで、かえって長く続けられる気がしています。
「できません」と言うことの勇気
「できません」と言うのは、逃げではありません。むしろ、守るために必要な選択です。すべてを受け止めていたら、自分もスタッフも潰れてしまう。「断ることは冷たさではない」と、自分自身に言い聞かせる毎日です。