後見業務に向き合うたびに感じる“正しさ”の迷い
後見人としての仕事をしていると、「これでいいのか?」と自問自答する瞬間がよくある。制度上は「本人の利益のために行動する」となっているが、実際には本人の意思がまったく見えないことも多い。財産の管理一つとっても、本人の望んでいることと、周囲の期待、自分の判断のバランスを取るのが難しい。特に家族がいないケースでは、すべての決断を自分で背負うことになり、正しさを問われる場面が続く。正直、精神的にしんどい業務だ。
制度は立派。でも現実は思ったよりドロドロしてる
後見制度は、高齢化社会において非常に意義のある制度だと頭では分かっている。けれど、実際に現場に出てみると、本人の意志が汲めないまま進む手続き、家族間の確執、そして報酬への不満など、きれいごとでは済まされない現実が待っている。かつて、身寄りのない高齢者の後見をしたとき、施設側と対立しながらも最善を尽くしたつもりだったが、最終的には施設から「やりすぎ」と言われてしまった。自分の判断に自信が持てなくなった経験だ。
本人のため、って言うけど本人は何も言わない
たとえば、知的障害のある方の後見を担当したとき、「本人のために」福祉サービスの申請を進めた。しかし、本人はそれを望んでいるのか、言葉での反応はなく、表情にも乏しい。「本人の利益」とはなんなのか、形式的な手続きで済ませてよいのか、毎回悩まされる。しかも、周囲の支援者や家族が割って入ってきて意見をぶつけてくるので、ますます混乱する。最終的には「無難な選択」をしてしまうこともある。
法的責任と倫理の狭間に立たされる感覚
後見人としての法的責任は重い。少しでも手続きを誤れば、家庭裁判所から注意されるし、報告義務もある。その一方で、現場で求められるのは“人間的な対応”だったりする。以前、本人が外出したいと訴えてきたことがあったが、リスクが大きいため施設と協議のうえ断った。後で聞いたら、本人はひどく落ち込んでいたという。正しい判断をしたつもりでも、どこかで倫理的な葛藤が生まれてしまう。
家庭裁判所との距離感──形式と実情のズレ
家庭裁判所は後見制度を支える柱であり、私たち後見人はその監督下にある。しかし、この“監督”という言葉が重くのしかかってくる。報告書や指示文書は事務的で、こちらの現場の実情や苦労はあまり反映されない。結果として、裁判所との距離を感じざるを得ないし、ときに「これは誰のための制度なのか?」と疑問に思う。
報告書を書くたびに「これ、意味あるのか?」と思ってしまう
毎年提出する後見報告書。正直なところ、同じことを繰り返し記載するだけで、実態の改善にはほとんどつながっていないように感じる。書類のフォーマットも融通が利かず、例外的なケースを書きづらい。ある年、急病で入院した本人の件を詳しく記載したら、逆に「余計なことを書きすぎ」と言われたこともある。なんだか、書けば書くほど疲弊するばかりで、報告の意味が見えなくなってくる。
内容じゃなくて“体裁”が見られている気がする
一度、提出した報告書が戻ってきたことがある。理由は、金額の小数点の記載形式が異なっていたから。中身ではなく書式のほうにばかり目がいっているように思えてならない。正確性は重要だが、現場ではそれ以上に柔軟性や臨機応変さが求められている。書類の不備を指摘されるたび、「本当に大事なのはそこなのか?」と感じてしまう。
裁判所からの指示に振り回される日々
あるとき、本人の財産の使い道について裁判所に相談したら、回答が返ってくるまでに3週間もかかった。結局、急を要する判断だったので、自分の裁量で動いたのだが、後日、裁判所から「勝手な判断は避けるように」と注意された。正直、「だったらもっと早く返事してくれよ」と言いたかった。現場のスピード感と、制度の遅さのギャップに、何度もイライラしてしまう。
形式的な指導と、現場のズレがしんどい
裁判所から送られてくる指導文書は、ほとんどテンプレートのような内容だ。こちらの報告や事情に寄り添ったものではなく、事務的に処理されている感が否めない。後見人としての責任感はあるものの、「このままでいいのか」とモヤモヤが募るばかり。少しでも現場の実情に耳を傾けてくれるような仕組みがあれば、どれだけ救われるかと思う。
報酬と責任のバランスが、どうにも割に合わない
後見業務は決して報酬が高い仕事ではない。むしろ、工数や精神的な負担を考えると、割に合っていないと感じることの方が多い。責任だけは重いのに、報酬は低めに設定されていて、「どうしてこんなに頑張ってるんだっけ?」と思うことがある。
正直、他の業務のほうが稼げるし楽
登記業務や相続関連の仕事と比べると、後見業務はとにかく時間がかかる。しかも、利益率も低い。以前、1年かけて後見していた案件で得た報酬は、相続登記一件分よりも低かった。精神的にも消耗するし、数字だけ見れば続ける意味が見えにくい。けれど、やめてしまえば誰がその人を支えるのか……という思いもあって、なかなか手放せない。
“善意”だけでは続けられないジレンマ
後見人の仕事には、確かに社会的意義がある。でも、それをモチベーションにするには限界がある。善意だけで背負うには重すぎるし、私生活にも影響が出る。休日に電話が鳴ったり、緊急対応を求められることも珍しくない。そういう積み重ねに、時折「もう限界かもしれない」と思う日がある。
心が折れかけたあの日のこと
ある日、施設から「後見人がもっとちゃんと動いてくれないと困る」と怒られた。自分なりに精一杯やっていたのに、まるで責任を押し付けられたようで、本気で辞めようかと思った。夜、事務所で一人、報告書を前にして涙が出た。結局、その後も続けているけれど、あの日のことは今でも心に残っている。
それでも「やってよかった」と思える瞬間もある
ネガティブなことばかり書いてしまったけれど、時には心が救われる瞬間もある。本人の笑顔、小さな「ありがとう」の言葉、そんな些細な出来事が、こちらの気持ちを少しだけ軽くしてくれる。報われることは少ないけれど、ゼロじゃない。それだけが、続けていくための小さな支えになっている。
ふとした言葉や表情に救われる
以前、認知症の方に絵本を読み聞かせたあと、「ありがとう、楽しかった」と言われたことがあった。その方は、普段は言葉数も少なく感情表現も乏しかった。そんな方の口から出た感謝の言葉に、思わず涙が出た。たった一言だったけれど、それだけでしばらく頑張れると思えた。
この業務の価値をもう一度見直す
確かに、後見業務には課題も多いし、精神的な負担も大きい。でも、社会から必要とされていることは間違いない。誰かがやらなければならない仕事であり、自分にその役割が回ってきたのだと思えば、もう少しだけ踏ん張ってみようと思える。完璧じゃなくてもいい。ただ、向き合い続けることに意味がある──そんな気がしている。