「正しさ」と「納得」は別物
司法書士として日々向き合うのは、法令や制度といった「正しさ」だけではありません。実際の現場では、いくら法的に正しい手続きをしていても、依頼者や関係者が納得しないという場面に何度も直面します。「登記できない理由」をいくら論理的に説明しても、「なぜやってくれないのか」と怒られることがある。この「正しいのに伝わらない」という感覚に、僕たちはいつも悩まされています。
法的には正しいのに、なぜ怒られるのか
以前、ある依頼者から「なんでこっちが書類を揃えなきゃいけないんですか?」と怒鳴られたことがありました。被相続人の戸籍謄本が必要だと何度も伝えたのに、最終的には「役所で全部揃えてくれると思ってた」と。こちらとしては当然の説明をしていたつもりでも、相手にとっては「意味のわからない要求」だったんでしょう。法的には一切間違っていないのに、感情のぶつかり合いになる。虚しさだけが残りました。
相手の「感情」に負ける法の言葉
法律は感情を扱いません。だからこそ、公平性が担保されているわけですが、実際のやり取りは感情のぶつかり合いの連続です。「なんでそんなに冷たい言い方をするのか」と言われたこともありますが、事実をそのまま伝える以外、他にどうしようもないんですよね。口調をやわらかくしても、「納得できないこと」には変わりない。理屈だけで人の心は動きません。
「そういう決まりです」が通じない現実
「それ、法律で決まっているんです」と何度言っても、「じゃあそれを変えてくださいよ」と言われたことがあります。もちろん制度を変える権限なんて司法書士にはない。それでも、目の前の相手は納得せず、怒りの矛先は僕に向く。こうなると、いくら法律が正しくても意味がないように思えてしまいます。ルールに基づいて仕事しているのに、まるで融通の利かない人扱いされるのは正直つらいです。
説明しても不信感だけが残るケース
「ちゃんと説明したのに…」という場面は少なくありません。特に家族間の相続のように感情が絡む案件では、正論が火に油を注ぐこともある。昔、ある姉妹の遺産分割協議で、妹さんが「お姉ちゃんがいつも勝手に決める」と泣き出しました。手続き上は何も問題なかったのに、結果として僕が姉側に味方したように見えてしまったようです。こちらとしては公平に進めていたのに、信頼を失うこともあります。
現場で感じる理不尽さ
日々の仕事の中で、理屈だけではどうにもならない場面が本当に多いです。特に地方の小さな事務所では、窓口に立つのは僕一人。登記だけでなく、感情のクッション役まで背負わされる。依頼者が納得できないと、書類は止まり、手続きは遅れ、結果的にさらに怒られる。全方位からの圧力にさらされる中、誰にもぶつけられない理不尽さを感じます。
一人で抱えるプレッシャーと板挟み
行政書士や弁護士などと違い、司法書士は「現場に出る」頻度が高い上、依頼者とも密接です。その分、何かトラブルがあればすぐに矢面に立たされる。登記官とのやり取りでは「もっと丁寧にまとめてください」と言われ、依頼者からは「これだけで数万円!?」と詰められる。事務員はいても、責任は全部自分。板挟みに疲れ果てる日もあります。
依頼者 vs 相手方 vs 登記官…全部こっちに来る
相続登記などでは、関係者が複数います。依頼者は一人でも、実際には兄弟や親族が複数関与していて、意見もバラバラ。「私が代表で進めます」と言っていた人が、途中で黙ってしまい、別の親族が「そんなの聞いてない」と怒鳴り込んでくる。さらに登記官からは形式の不備を指摘され、結局全部の調整役を僕がやる羽目に。これ、報酬以上に大変です。
事務員には言えない心の疲れ
事務員さんは頼りになります。でも、すべてのプレッシャーを共有するわけにはいかない。特に感情的なやり取りや、クレームまがいの電話対応、夜遅くのメールなどは、最終的には僕の役目です。「また変な案件引いちゃいましたね」と笑ってくれるけど、その裏で胃が痛くなってるのはこっちです。小さな事務所の代表って、本当に孤独です。
理屈が通じないときの対応術
法律実務家として理屈に立脚するのは当然。でも、それだけでは前に進めないと痛感する場面も多い。最近は、「いかに納得してもらうか」に時間を割くようになりました。つまり、説得ではなく共感。本音では「面倒くさいな」と思いつつも、それを飲み込んで、相手の感情に一度寄り添ってから理屈を持ち出すようにしています。
共感は武器になるか?
共感するって、意外と疲れます。でも、相手の「納得できない」という気持ちを受け止めてから「でも実はですね…」と話すと、不思議と聞く耳を持ってもらえることがある。昔は「まず理屈ありき」だった僕も、今では「まず聞く」ことを意識するようになりました。それでも100%通じるわけじゃない。でも、こちらのストレスは少し減ります。
あえて「間違ってないけどね」と口に出す意味
相手が怒っていても、「でも私は間違ってないですよ」とは言いません。でも心の中ではそう思ってる。その気持ちをぐっと抑えて、「気持ちはわかります。でも…」と続ける。自分の正しさを主張しないことで、相手の態度が和らぐこともあります。そういう意味では、あえて自分の正論を飲み込む勇気も、現場では必要なのかもしれません。
理論と人間関係のバランスの取り方
法律家である前に、人間関係の調整役だと感じることが増えました。正しさを通すことで人間関係が壊れるなら、それは成功とは言えません。逆に、少し手間が増えても、皆が納得して終われる方が長い目で見てプラスになる。バランス感覚は経験でしか磨けないと思います。正論と調和、そのはざまで毎日判断しています。
それでも法に立つ覚悟
それでも僕たちは法律家です。感情の嵐に巻き込まれても、最終的には法律に立脚するしかない。理解されなくても、受け入れられなくても、法のもとで依頼者の権利を守る。それが僕らの仕事です。理不尽や感情に流されすぎず、でも人間らしさも失わない。そのギリギリのところで、僕は今日も働いています。
法の側に立ち続ける孤独と誇り
正しいことをしても嫌われる。それがこの仕事のつらさであり、誇りでもあります。誰かがやらなきゃいけない役目だから、自分が引き受けているんだと、自分に言い聞かせることもあります。誤解されても、最後には「あの時ちゃんとやってくれてよかった」と言われることを願って。
納得はされなくても、依頼者の未来のために
「ややこしいこと全部お願いしてよかった」と、ぽつりと言われた一言に救われたことがあります。たとえ手続きが面倒でも、それがその人の生活や相続人同士の関係を守る一助になるなら、やる意味はある。納得されなくても、未来のためにやる価値があるんだと思えます。
間違ってなかったと思える瞬間を信じて
全員に理解されることなんてありません。でも、時折「先生にお願いしてよかった」と言われる。その瞬間があるから、続けていけるのかもしれません。正論が通じないこの世界でも、信念だけは曲げたくない。そう思いながら、明日もまた誰かのために法と向き合います。