兄弟の仲にヒビが入る瞬間:遺言書が引き金になるとき
遺言書というのは、相続人たちの間に“平穏”をもたらすためのものだと思われがちです。確かに、法的には効力のある意思表示であり、被相続人の思いを形にするものです。しかし、実際の現場では、遺言書が原因でかえって兄弟姉妹の間に深い溝を生んでしまうこともあります。特にその内容が曖昧だったり、本人の真意が読み取りづらい場合、「父はそんなこと言ってない」といった主観のぶつかり合いが起きがちです。今日は、そんな“相続の現場”のリアルについて、司法書士としての私の実体験をもとに綴ってみたいと思います。
「たった一文」が大波紋を呼ぶ
「長男に自宅を相続させる」──たったこれだけの一文。ですが、これが引き金となって三人兄弟の関係が完全に壊れてしまった事例がありました。自宅を受け継ぐ長男は「当然のこと」と主張し、次男と三男は「遺言があっても納得できない」と怒りをあらわにしました。理由は「生前、父は全員平等にって言ってた」というもの。文面があっても、言葉の裏にある“記憶”が人それぞれに残っていて、それがぶつかるのです。
そもそも遺言書ってそんなに万能なのか?
遺言書があればすべて解決する、という幻想が未だに根強いです。確かに公正証書遺言であれば法的な強さはある。でも、それは“書かれたとおりに相続を進める”という点においてであって、「心情的な納得」を保証するものではありません。むしろ、きちんと書かれていればいるほど「なぜ私は外されたのか?」という不満が可視化されてしまう。万能どころか、扱い方を間違えると争いの種になる、これが遺言書の現実です。
現場で起きているのは、解釈のぶつかり合い
相続の現場に立ち会っていると、法的な文言よりも“解釈”の対立が事態を複雑にしていることが多いと感じます。書かれている内容よりも、「本人はこう言っていた」「これはこういう意味だろう」といった感情のぶつけ合いが争いの本質です。特に兄弟間での相続は感情的になりやすく、話が全然進まなくなります。
“父の本意”とは一体何か──想像と記憶の応酬
遺言書の一文をどう解釈するか、という問題に直面したとき、兄弟それぞれが自分の記憶と感情を持ち出して「本当の父の気持ち」を語り始めます。でも、そのどれもが“正しい”わけでも“間違っている”わけでもないんです。まるで複数の脚本家が一つのセリフを勝手に解釈して演出しているような感覚。私としては「それを裁く立場ではない」と何度も言うのですが、聞く耳を持ってもらえないことも多いです。
文面の言い回し一つで全部変わる
「遺贈する」と「相続させる」では、法的な意味が違う。けれども依頼者はそんな違いを知らずに使っていることがほとんどで、ましてやそれを読む相続人はもっと理解していません。たとえば「長男に不動産を相続させる」と書いてあるとき、それが「現金分割とのバランスが取れているか」などまで考慮されていなければ、他の兄弟が「自分は軽んじられている」と感じるのも無理はありません。
「〇〇に相続させる」の意味が招いた混乱
実際にあった話ですが、「二男にアパートを相続させる」という文言だけが書かれていた遺言で、長男が「じゃあ俺は?」とブチギレた案件がありました。しかもそのアパートが一番収益性の高い資産だったものだから、遺言書の“効果”としては最悪です。長男は、「絶対にこれは父の意思じゃない」と言い出して、結局は家庭裁判所での調停にまで進みました。
文言の曖昧さが招く、素人の「正義感」
「父はこういう意味で書いたんだと思う」とか、「これはたぶん兄を立てただけだ」など、完全に“推測”で解釈しようとする場面も多いです。ですが相続の現場では、その“思い込み”がかえって争いの火種になります。感情が絡むと冷静さを失い、司法書士がいくら説明しても「でも納得できない」と跳ね返されてしまいます。
司法書士の立場:言葉には責任を持てないつらさ
正直なところ、私たちは法的な手続きを正しく進めるために存在しています。けれども依頼者たちは、まるで私たちが“気持ちの仲裁人”であるかのように接してくることも少なくありません。ここに一番の板挟みがあります。
説明しても納得されない苦しみ
「法的にはこうです」と丁寧に伝えても、「でもそれじゃ納得できないんですよね」と返される。何度繰り返しても「あなたは私の気持ちが分かっていない」と言われる。正直、つらいです。事実を淡々と伝えることが私の仕事ですが、それが人を冷たくしているように思われるのもまた現実です。
誰にも感謝されない、誰からも責められる
うまくまとまったら「まあ当然でしょ」と言われ、うまくいかなかったら「ちゃんと説明してくれなかった」と責められる。そんな役回りなんです、司法書士って。心の中では「こっちは味方でも敵でもないんだけどな…」と思っていても、依頼者には通じません。
「あなたはどっちの味方?」と詰められる現場
一方の兄弟が事務所を出たあとに、もう一方がやってきて「先生、さっきはあっちの肩持ってましたよね?」と聞いてくる。もう勘弁してくれって感じです。中立であるはずなのに、いつの間にか立場を決められてしまう。そんな状況、珍しくありません。
弁護士じゃないのに解釈を求められる矛盾
司法書士はあくまで手続きを進める立場。法律相談はしても、解釈や判断は弁護士の領域です。でも、実際には「この遺言、どういう意味ですか?」と問われ、曖昧な表現に答えなきゃいけない。正直、ここも限界です。
裁判所も万能ではない:結局「争族」になるまで
家庭裁判所に調停を申し立てればすべて解決すると思われがちですが、それもまた幻想です。話し合いがこじれて裁判に進めば、関係は取り返しのつかないレベルで壊れます。そこに“勝者”なんていません。
家族の信頼関係が音を立てて崩れていく
相続をめぐる争いは、金額の大小にかかわらず家族関係に致命的なダメージを与えます。もともと仲が良かった兄弟姉妹が、ほんの一文の解釈をめぐって絶縁してしまうこともあります。私たちはそれを何度も見てきました。
調停や訴訟に進んだらもう後戻りは難しい
調停に入ると、その段階で「争い」が前提になります。和解できなければ訴訟。そして訴訟に入った時点で、完全に“敵”と“味方”に分かれる。家族の関係が元に戻ることはほぼありません。寂しい現実です。
今できることは、「書き方」と「伝え方」の工夫
争いを防ぐにはどうしたらいいか。それは遺言書の“書き方”と、そして“生前の伝え方”にかかっています。完全な方法はありませんが、少なくとも感情を爆発させない仕組みを作ることはできます。
遺言書はプロと一緒に書くべき、ただし…
公正証書遺言は、形式的には安全です。でも、そこに「心の納得」がなければ、火種を封じ込めただけにすぎません。結局は内容の説明や、相続人への配慮が不可欠です。つまり、書き方より“伝え方”のほうが重要かもしれません。
公正証書でも安心できない現実
「公正証書だから安心」と思っていたら大間違いです。むしろきちんと形式を整えてしまったことで、「なぜ自分だけが少ないのか」という不満がはっきり形になってしまい、争いが表面化する例も多いのです。
最終的には“想像力”が試される
遺言を書くとき、「自分がいなくなったあと、家族がどう動くか」を想像できるかどうか。それが争いを防ぐ第一歩です。でも現実は、そんな未来に思いを馳せる余裕もないまま亡くなる方がほとんど。それが相続の難しさであり、私たちが今日も悩み続ける理由です。