“立ち会う”という責任の重さ——後見人として見た人間関係のリアル

“立ち会う”という責任の重さ——後見人として見た人間関係のリアル

後見人という立場に立った瞬間、空気が変わる

後見人として初めて家族の集まりに同席したとき、部屋に入った瞬間から空気がピリッと変わったのを今でも覚えています。それまでは和やかに話していた家族も、私が一言あいさつした途端に静まり返る。まるで“この人は何をしに来たんだ”という空気に包まれたようでした。後見人というのは、書類を扱うだけの人間ではなく、そこに“居る”だけで人間関係に影響を与えてしまう存在なのだと痛感しました。

「ただの書類の人」じゃなくなる瞬間

登記申請や財産管理のように、役割としては形式的で冷静な判断が求められるはずなのに、現場に行けば空気は一変します。「この人が何をするんだろう」「味方なのか敵なのか」——目線の一つ一つに、そんな疑いが込められているように感じることもあります。後見人は制度上の存在であっても、“人と人の関係”に入り込む以上、無感情ではいられない立場になるのです。

家族にとっての“他人”が場を支配する違和感

後見人として同席している私にとって最もつらいのは、場に“異物”として存在してしまうことです。私がいることで、本来出てくるはずだった本音が引っ込んでしまったり、逆に私にぶつけてくる人がいたり。まるで家庭のテーブルに制服姿の役所職員が紛れ込んでいるような、そんな違和感。そこに「感情の蓋をする人」がいると、手続き以上に“空気の調整”にエネルギーを使う羽目になります。

初めての現場で感じた、説明できない重圧

最初に後見業務に関わったとき、何がどう正解なのか、本当に分からないまま現場に向かいました。制度は理解している。法的根拠もある。でも、目の前の家族の温度や表情の変化には、マニュアルも法令集も役に立たなかった。人と人の間に立つということが、これほどまでに難しいとは、正直想像していませんでした。

何が正解かわからないまま進む会話

例えば、「お母さんの通帳は誰が持つのか」という話題になった時、それが単なる手続きの話ではないことに気づかされます。家族の中の信頼関係や、過去のわだかまり、そして今後の関係までもが絡んでくる。私は「公正中立」を保つよう努めますが、それが逆に冷たい対応に映ることもある。答えがないまま、迷いながら会話を進める不安は、後見人にとって避けられない現実です。

当事者ではないのに、なぜか責任を感じる構造

後見人は法律上の代理人ですが、実際には「感情の受け皿」にされがちです。家族間の衝突を防ぐために場を仕切ることもありますし、ときには感情的にぶつけられることもある。「そんなの私の責任じゃない」と思っても、心はどうしても重くなります。自分が引き受けた立場とはいえ、当事者ではない苦しさと、それでも背負ってしまう責任感とのギャップに悩まされます。

「信頼される」と「丸投げされる」は違う

業務をしていると、「先生に任せておけば大丈夫でしょ」と言われることがあります。ありがたい言葉にも思えますが、実はこれが一番危ないサインです。信頼ではなく、責任の押し付けだったということに、後から気づくこともあります。

何でも相談される=安心ではない

「これってどうしたらいいですか?」「あれも先生が決めてくれませんか?」といった質問は、確かに頼られている証拠ですが、同時に依存でもあります。私がいなくなったらどうするんだろうと不安になりますし、判断を委ねられるたびにプレッシャーが増していく。何でも相談されることが必ずしも良い状態ではないと、後見業務を通して痛感しました。

任せたいだけの人たちとの距離感

中には、「こっちはよくわからないから、全部そっちでやってよ」という人もいます。理解しようという姿勢がまったくないまま、責任だけこちらに押しつけられる。そんな人たちに囲まれて、心がすり減っていく感覚は、後見人をやったことのある人にしかわからないものかもしれません。

家族の本音が飛び交う場に、立ち会ってしまう

後見人として最もつらい場面のひとつが、「家族の修羅場」に同席してしまうことです。普段は抑えている本音がふとしたきっかけで爆発し、場が荒れていく。私は傍観者でもあり、調整役でもあるという曖昧な立場に置かれます。

言葉の裏に隠れた感情をどう受け止めるか

「兄貴は昔から母親の金に手を出してた」といった暴露が始まると、もう手続きどころではありません。感情の応酬に巻き込まれながらも、こちらは“冷静”でいなければならない。とはいえ、黙っていることが逆に火に油を注ぐこともあり、非常に難しい対応を迫られます。

泣く人、怒る人、黙る人――感情の嵐に晒されて

場がヒートアップすると、泣き出す人もいれば、怒鳴る人もいます。黙り込んでしまう人もいる。そうした中で、私はただの手続き係ではいられなくなります。

自分の中にわいてくる“無力感”との闘い

正直なところ、何度も「もう関わりたくない」と思う瞬間がありました。何を言っても解決しないし、感謝されるどころか逆恨みされることもある。それでも、その場にいる以上、逃げることはできない。心の中で湧いてくる無力感とどう向き合うかが、後見人としての大きな課題のひとつだと感じています。

「公平であること」が求められる矛盾

後見人は中立であるべき立場ですが、現実の中でその「公平さ」が逆に誤解を生むこともあります。「あの人の味方をした」「自分の話を聞いてくれなかった」といった声が、あとから寄せられることもしばしばです。

法律の枠では語れない現実

たとえば、兄弟の一方が親の面倒を長年見ていたケース。法律的には均等に扱うのが原則でも、現場には“感情的な正義”があります。そうした気持ちをどう扱うかは、マニュアルには載っていません。公正に振る舞うことが、時に冷たさや無理解として受け取られる難しさがあります。

線を引く役目の苦しさ

「ここまではできます」「それは家庭内の問題です」と線を引く必要があるとき、言葉を選びながらも毅然とした態度を求められます。でもその一言が、人の心を深く傷つけることもある。そのたびに、“正しさ”と“優しさ”の間で揺れるのです。

学びと苦しみはいつもセットでやってくる

この仕事をしていると、毎回何かを学ぶ反面、心に引っかかるものも持ち帰ることになります。それは知識というより、感情や人間の複雑さに対する“実感”に近いものです。

感謝される日もあれば、責められる日もある

後見人として「ありがとう」と言われる日は確かにあります。でも同じくらい、「あなたが来たせいで話がややこしくなった」と責められる日もある。感情の振れ幅が大きい分、心の整理には時間がかかります。

立ち会うたびに、自分の感情も削られていく

冷静さを保つという名のもとに、自分の感情に蓋をし続ける。その結果、気づけば何かを“感じること”すら疲れてしまう。そんな日もあります。それでも、立ち会うからこそ見えること、学べることがあるのも事実です。

それでも後見人を引き受ける理由

ここまで読んで、「そんなに大変なら断ればいいのに」と思う方もいるかもしれません。でも、私はそれでも後見人の仕事を続けています。なぜかと言えば、誰かがやらなければ、誰も助けられないからです。

誰かがやらなければ回らない現実

親族に任せられない事情がある家庭も多く、そうした人たちを支える役割は、やはり必要です。苦しい現場であっても、「あなたがいてくれて助かった」と言われると、やっぱり断ち切れない思いが湧いてきます。

“自分にできること”の意味を問い直す

この仕事を通じて、自分にできることは限られていると感じるようになりました。でも、その“限られたこと”を一つひとつ丁寧にこなしていくことが、誰かの支えになるなら、それで十分だと思っています。文句を言いながらでも、続けていける理由は、結局その一点にあるのかもしれません。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

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