肩書きが重くて潰れそうな朝に

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肩書きが重くて潰れそうな朝に

司法書士という肩書きが重く感じるとき

「司法書士」という響きは、外から見れば「堅実」「信頼」「専門家」など、きらびやかに映るのかもしれません。でも、私にとっては、毎朝その肩書きが肩にずしりとのしかかるような感覚になることがあるのです。名刺を差し出す手が重く感じる日、電話に出るのが怖い日、そんな瞬間が確かに存在しています。司法書士として開業してから10年以上が経ちますが、いまだに「慣れない」日があります。

朝、名刺を見るのがつらくなる瞬間

朝の机の上、昨日の業務で使った名刺入れを開くと、自分の名前の下にしっかりと「司法書士」の文字が書いてあります。それを見た瞬間、「今日もまた責任の日が始まる」と思うと、正直に言って気が滅入るのです。たとえば登記申請のミスがあれば、依頼人にも法務局にも迷惑がかかる。その重圧を思い出してしまうのです。

「先生」と呼ばれる違和感と疲労

「先生」と呼ばれることに、未だに慣れません。地域柄か、依頼者の年齢層のせいか、電話でも面談でも必ずそう呼ばれます。最初は「自分も一人前になったな」と思っていたのですが、最近ではその言葉に違和感すら覚えるようになりました。「先生なんだから完璧にしてくれるんでしょう?」という、無言の期待に疲れてしまうのです。

理想と現実のギャップに潰されそうになる

開業前、私は希望に満ちあふれていました。自分の力で地域に貢献し、困っている人を助ける仕事ができるんだと信じていました。でも実際には、納期に追われ、制度変更に振り回され、事務員のミスにも気を配り、理想とはほど遠い日々が続いています。そのギャップが日々の疲労感を倍増させています。

開業前に抱いていた希望との乖離

私は「自由になりたい」という思いから独立しました。上司もいないし、好きなように仕事を選べる。そう思っていました。けれど実際は、「自由な時間」などなく、依頼があれば土日も出勤、夜間に対応せざるを得ないこともあります。自由を得る代わりに、すべての責任を自分で背負うことになっただけだったのです。

「誇り」ではなく「義務」と化した肩書き

最初は「司法書士であること」に誇りを持っていました。でも今は、どこか「義務」のように感じてしまう。責任の重さや周囲の目、依頼人からの期待が、自分自身の気持ちを押しつぶしているように感じることがあります。

周囲の期待に応え続ける苦しさ

依頼人は「この人に任せておけば大丈夫」と思ってくれている。でも、それに応えなければならないプレッシャーは半端ではありません。たとえ自分が体調不良でも、家庭のことで悩んでいても、「司法書士」という仮面を被って対応しなければならない。その積み重ねが、じわじわと精神を削っていきます。

自分の感情を置き去りにしてしまう日々

「忙しいから」「今はそんなこと考えている余裕はない」と、自分の気持ちを後回しにするのが当たり前になっていました。でもふと気づくと、自分が何を感じているのかさえ、わからなくなっていたのです。感情を抑えて働き続ける日々は、いつか必ず限界が来ます。

誰にも見せられない弱音と愚痴

司法書士という仕事は、どこか「弱音を吐いてはいけない」空気があります。「士業なんだから、強くあれ」「冷静であれ」。そんな無言の圧力に、自分でも自分を縛ってしまうことがあります。でも実際には、愚痴をこぼしたくなることだってあるし、逃げ出したくなる日もあるのです。

「弱音=無責任」だと決めつけてしまう自分

「こんなことで弱音を吐いたら信用を失う」と思ってしまうのは、たぶん自分の中にある「正しさ」のせいなんでしょう。でも、それが逆に自分を苦しめている。誰かに「もう頑張らなくていいですよ」と言われたい、でも言われたくない。そんな矛盾した思いに、夜中のデスクでうずくまることがあります。

事務員にも相談できない孤独

事務員さんは真面目で信頼しています。でも、経営のことやお金のこと、依頼人とのトラブルについて、正直に話すことはできません。どこかで「一人で背負わなければ」という思いが抜けないのです。話せる相手がいないという孤独は、静かに、でも確実に、心を削っていきます。

どうして続けているのか、ふと立ち止まる

忙しさのなかでふと、「自分はなぜ続けているのだろう」と考えることがあります。お金のため? 家族のため? 資格を取ったからやめられないだけ? その問いに明確な答えが出ないまま、気がつくとまたPCの前に座っている。この繰り返しに、自分でも疑問を感じるようになってきました。

お金のため?責任感?逃げられない何か?

もちろん生活のために働いているのですが、それだけじゃない。自分が選んだ道だから責任を取る、という思いもあります。でも本音を言えば、「もう後戻りできないから続けるしかない」という気持ちの方が強い日もあります。

「辞めたい」と思うたびに考える現実

本気で「辞めたい」と思ったことも何度かあります。でも、司法書士の資格を活かせる道は限られていて、他の業種に飛び込む勇気もない。40代半ばになって、もう転職市場でも若手とは見られない。そう思うと、「今のままでいいや」と諦めに近い気持ちになります。

資格を取ったことが足かせになる瞬間

資格があるからこそ食べていける。でも、資格があるせいで「辞められない」状況に追い込まれているとも言えます。自分で選んだ道なのに、それが「足かせ」になっているという矛盾に、苦しくなることもあります。

逃げる選択肢が見えなくなる構造

「逃げる=負け」と思い込んでしまう自分がいます。そして、周囲も「頑張っているね」「続けて偉いね」と声をかけてくれる。それがまた、逃げられない空気を作ってしまう。こうして、自分で自分を追い込んでしまっているのかもしれません。

それでも続けていく理由を、もう一度探してみる

ここまでたくさんの弱音を書いてきましたが、それでもこの仕事を続けているのは、どこかに「この仕事が好きだった」という気持ちが残っているからかもしれません。日々のなかで小さな喜びを見つけること、それが今の私の救いになっています。

感謝の言葉が救ってくれることもある

先日、ある依頼人から「本当に助かりました。先生がいてくれてよかった」と言われたことがありました。その一言に、涙が出るほど救われました。ああ、自分の存在にも意味があるんだな、と。たった一言でも、私たちの心を支えてくれることがあるのです。

「司法書士らしくない自分」でもいいのでは

最近は、「司法書士らしくなくてもいいのかもしれない」と思うようになりました。完璧じゃなくても、失敗しても、それを認めて笑えるような司法書士でもいい。人間らしくいられることこそが、本当は大事なんじゃないかと感じています。

完璧を目指さないという選択肢

毎日すべてを完璧にこなそうとすると、心が持ちません。「できない日があってもいい」「休んでもいい」そう思えるだけで、少しだけ気が楽になります。そうやって自分に許しを与えることが、続けていくために必要なんだと最近やっと気づきました。

肩書きに自分を合わせない生き方

「司法書士」という肩書きに自分を押し込めるのではなく、自分という人間がたまたまその資格を持っているだけ、と考えるようにしています。肩書きが私を作るのではなく、私が肩書きとどう付き合うかが大切なのだと、今は少しずつ思えるようになってきました。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

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