認知症の母を相続登記依頼人にした理由とその実務

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認知症の母を相続登記依頼人にした理由とその実務

認知症の親を依頼人にするという現実

最近、相続登記の相談を受ける中で「依頼人が認知症の親です」というパターンがやけに増えました。電話してくるのはたいてい子ども世代。でも登記の名義人は母や父。書類上は“本人”が依頼する体裁を取らなければならないのに、明らかに本人は事情を把握していない…という状況が普通にあるんです。司法書士としての立場から言えば、こうしたケースは非常に悩ましい。見過ごせば職責を問われるし、突き放せば相談者が困る。その狭間で揺れるのが本音です。

「本人の意思」があるとは言いづらい

一番の問題は、形式上は「本人の意思」に基づく登記であるにもかかわらず、実際には本人が何も理解していない場合があること。判断能力が低下しているのは明らかなのに、家族は「なんとかなる」と軽く言う。でもその“なんとか”を後から問われるのはこっちなんですよね。意思確認が曖昧なまま登記を進めるのは、心情的にもリスク的にもかなり厳しいんです。

家族が主導するけど、書類には「本人」名義

家族がすべての段取りを組んでいて、実際に動いているのは子ども。だけど委任状や登記原因証明情報には「本人の署名」が必要。しかも書類には「自筆」と明記されているわけで、代筆も難しい。実際にペンを握ってもらったけど、名前を途中で忘れちゃって「今日はやめとくわ」と言われたこともあります。現実はきれいごとじゃ回らないんですよ。

最初の違和感は「問い合わせ」の段階で始まる

こういったケースは、最初の電話相談の段階でなんとなく「違和感」があります。たとえば「母の相続登記をお願いしたいんですが、本人はちょっと年でして」と言われる。詳しく聞くと「まぁ、最近ちょっと物忘れがひどくて」と。でも、その“ちょっと”がかなり深刻な場合が多い。やり取りの中で察しなきゃいけないのも、地味に疲れるポイントです。

電話口の声は子ども。でも依頼人は親

「お母様が依頼人ですね?」と確認すると「そうです、でも全部私がやりますんで!」とすぐに返ってくる。その時点で「あ、これはまずいかも」と身構えます。要するに、本人の意思ではなく家族の意思で進んでいる可能性が高い。書類の段取りや意思確認の負担がすべてこちらに降ってくるのが、目に見えるようです。

「委任状は書けます」と言われても信じていいのか

よく言われるのが「母は字が書けますから、大丈夫です」と。でも、いざ会ってみると、署名どころか会話もままならないことがあるんです。かといって「診断書をもらってください」と言うと、急にトーンが下がる。気まずい空気が流れる。「それって必要なんですか?」って言われるけど、必要なんですよ…。でも、言いにくいんです…。

面談で見えた本人の様子に戸惑う

いよいよ面談となったとき、本人の様子を見て「ああ、これは無理だ」と思うこともあります。見た目はしっかりしていても、話してみると内容がかみ合わなかったり、同じことを繰り返したり。家族は慣れていて気にしていないようですが、初対面のこちらとしては判断に迷います。本当にこの人が登記を理解しているのか?自問自答の連続です。

目が合わない。話が噛み合わない

以前、80代のお母様との面談中、こちらが話しかけても目を合わせず、返答もあいまい。家族は「ちょっと恥ずかしがり屋で」とフォローしますが、それにしても意思確認としては難しすぎる。しかも「押印はしてるので大丈夫です」と言われても、納得できない自分がいます。判断能力の有無を自分で決めなきゃいけないこの立場、地味にしんどいんですよ。

家族の「大丈夫です」が一番大丈夫じゃない

家族が一番よく口にする言葉が「大丈夫です」なんです。でもこの“安心感”が一番危ない。むしろ「ちょっと不安なんですけど…」と正直に言ってくれる方が助かります。無理やり“形式だけ整えて”くると、あとでトラブルの元になりかねない。そのことを伝えても、通じないことも多いです。「なんでそこまで慎重なの?」って顔をされると、毎回ちょっと落ち込みます。

「うちは家族仲がいいんで!」の圧

「うちは家族でよく話し合ってるから!」と堂々と言われることがあります。いや、それは素晴らしいことです。でも、それと“本人の判断能力”はまったく別の話なんですよね。でもこの違いが伝わらない。「家族がいいと言ってるのに、なんで登記できないの?」という空気になってしまうと、こちらの立場は一気に悪者。地味にストレス溜まります。

判断能力と意思確認の線引きがつらい

一番つらいのは「この方に意思能力があるのか?」という判断を、実質こちらが下さなければならないこと。法的には医師の診断が一つの基準ですが、現場ではそこまで整っていないことが多い。最終的には司法書士としての経験と感覚で「大丈夫」と判断するしかない。でも、その責任は重すぎます。

診断書があってもなくても判断はこっち

仮に診断書を持ってこられても、「この診断書があるから登記OK」とはなりません。逆に、診断書がないけど「元気にしてます」と言われたときのほうが厄介です。書類には現れない“空気”をどう読み取るか。それを求められるのが、司法書士という職業の不思議なところです。たぶん、思われてるより何倍も神経使ってますよ。

登記原因証明情報の作成に神経を使う

形式的には「本人の意思による登記」として書かなきゃいけない。でも、実際には本人が意思表示できるかも怪しい。そのギャップを文書で埋めるのが、司法書士の仕事なんですよね。書きながら「本当にこれでいいのか?」と毎回葛藤します。誰か代わりに書いてくれって思います。

「本人が意思能力ある前提」で文案をつくる苦しさ

文面としては「〇〇は死亡し、被相続人□□の所有する不動産について、△△が相続人として相続したので、所有権の登記を行う」というように書くわけですが、これを“本人の意思”として構成するのがキツい。意思能力があることを前提とした文章なので、もしトラブルがあれば「じゃあなんでこんな文書が通ったの?」と問われる立場になります。

署名・押印のタイミング管理も地味に難しい

署名をお願いするタイミングにも気を使います。面談の後すぐがベストだけど、体調や機嫌でその日には無理なことも。かといって日を改めると家族の負担も増えるし、こちらのスケジュールもタイト。しかも同じ署名を2回書くと混乱してしまう高齢者もいて、現場は本当に綱渡りです。

最終的にはこちらが矢面に立つ

家族の希望通りに進めた結果、もし何か問題が起きれば「司法書士が通した」と言われる。そうならないよう慎重になると、今度は「なんでこんなに手続きが面倒なんだ」と責められる。どっちに転んでも疲れるんです。自分の正義感と相手の善意が噛み合わないのが、一番しんどいですね。

登記完了までは「こちらの責任」にされがち

無事に登記が終われば「ありがとう」で済むんですが、途中で何か問題が起きれば「あなたが確認したんですよね?」と詰められるのがこの仕事。間に立つ司法書士のつらさって、案外知られていません。信頼とリスクのバランスをどう取るか、毎回悩みます。

法務局の判断も読めないから胃が痛い

さらに厄介なのが法務局の判断。こちらが「大丈夫」と判断しても、局の担当者が「これは意思能力に疑義あり」と言ってきたらアウト。そのリスクも含めて動かないといけない。毎回書類を提出するとき、軽く胃が痛みます。本当に胃薬常備です。

無理だと思ったら断る勇気も必要

最終的には「これは受けられない」と判断することも必要です。無理に引き受けて自分が苦しむより、正直に断ったほうがいい。ただし、それも勇気がいります。「断るなんて冷たい」と言われることもあるから。でも、自分を守るのも仕事のうちです。

やりすぎると自分が潰れる

人のためにと思って動いていたら、気づけば自分の心身がボロボロだった。そういう司法書士、少なくありません。自分を追い込まないように線を引くのは、本当に大事です。手続きを断る勇気、それが結局一番優しい選択になることもあるんですよね。

でも、断ったあとの罪悪感もしんどい

断ったあとに「あの家族、他でうまくいったかな」と気になってしまうのも人情。だからこそ、断るときには誠実に、別の支援機関を紹介したり、方向性を提案したりして、後味を少しでもよくする工夫をしています。でも、やっぱりちょっと心に残るんですよね…。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

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