沈黙の3時間に立ち会って——これは何だったのか
司法書士として遺産分割協議の立ち会いは日常業務のひとつですが、あの日の光景は今でも強烈に記憶に残っています。協議が始まった直後、全員が席に着いたまま、誰一人として言葉を発さず、3時間がただただ過ぎていきました。普段なら、冒頭の挨拶や確認事項から話が展開していくものですが、今回はその「最初の一言」すら出なかったのです。目の前の時計の針だけが進んでいき、私は何度も体勢を変えて座り直すことしかできませんでした。
「何も起きない」という異常事態
日頃から相続に関するトラブルには慣れているつもりでしたが、「沈黙」で時間が潰れていくというのは想定外でした。これが怒鳴り合いであれば、まだマシです。お互いの意見があるだけ、前に進む余地があるからです。しかし沈黙は、誰もが「何かを待っている」状態。しかも、誰が何を待っているのかさえ分からないのです。
口を開けば壊れる空気
その場の空気は、ちょうど薄氷のようなものでした。ほんの一言が、場を一気に壊してしまう気配が漂っていました。ある兄弟はじっと書類を見つめ、ある姉妹は天井を見上げていました。誰かが話せば、過去のしこりが一気に吹き出すのを皆が感じていたのでしょう。結局、口火を切る勇気を持つ者は誰一人いませんでした。
全員が固まったまま、ただ時間だけが過ぎる
私は時折、時計を見ました。午前10時に始まった協議は、気づけば13時を回っていました。途中で休憩もなく、誰かがトイレに立つこともなく、飲み物を口にする者もいません。何かが「始まる」予感はずっと漂っていたのに、結局何も始まらなかった。これほど何もしなかった時間が重く感じたのは、初めてのことでした。
事前説明も終わっていたのに、なぜ?
協議の前には、関係者全員に必要書類の説明や流れを文書と口頭で伝えていました。書類の不備もなく、相続人の人数も少なく、トラブルの予兆も感じなかった案件でした。それだけに、この沈黙の展開は意外でした。
揉めると思っていたが、まさかの沈黙
過去に些細な口論があったとは聞いていましたが、それが沈黙に転じるとは思いませんでした。ある意味では、感情の対立よりも根が深い。「もう話すこともない」「話しても無駄だ」というあきらめが充満していたのかもしれません。
緊張感と無力感のはざまで
私の立場は中立です。司法書士として場を整えることはできても、交渉の中身に入ることはできません。その中立性が、こういう場面では本当に苦しくなる。どうしても、何もできない自分に嫌気がさすのです。
司法書士としての立場——沈黙には介入できない
こうした立ち会い業務では「黙って見ているだけ」という時間が思いのほか多いものです。特に、相続人同士の関係がぎくしゃくしている場合、言葉が出るまでひたすら待つしかありません。今回のように、全く言葉が出ないケースでは、正直「何のために自分がここにいるのか」と思ってしまいました。
こちらからは動けない理由
司法書士は当事者ではありません。だからこそ、公平に話を聞き、正確に手続きを進められるわけですが、そのぶん「何かを促す」ことが難しい。沈黙が続いたからといって「そろそろ何かお話しませんか?」などと言ってしまえば、それは中立を逸脱することになってしまうのです。
中立とは「見ているだけ」のことか
中立とは「バランスを保つこと」だと昔は思っていました。でも今は、「何もできないことを受け入れること」だと感じています。静まり返った空間で、私は何度も「この場に意味があるのか」と問いかけ続けました。
事務的な進行さえ拒まれる空気
一応、議事の流れを確認したり、今日の目的を改めて伝えるなど、できる範囲の対応を何度か試みました。しかし、そのたびに誰かの視線が「今はやめてくれ」と語っているようで、言葉を飲み込むしかありませんでした。
沈黙の間に考えていたこと
3時間、ただ座っているだけというのは想像以上に体力を消耗します。沈黙という重圧のなかで、頭の中はずっとフル回転していました。
この時間、報酬には入るのか?
正直な話、あの3時間が「実務」としてカウントされるのかは微妙なところです。書類の確認も進まなかったし、話も進展していない。けれど、時間だけは費やしている。料金表には書けない「沈黙料」みたいなものが、ほんとは欲しいくらいです。
事務員を帰した判断は正しかったか
途中、これは長引くと思って事務所に電話し、事務員を早めに帰すよう指示しました。それでよかったとは思っていますが、なんとも言えない後味が残りました。彼女がいたら、少しは和やかな雰囲気になっただろうか? そんなことを思いながら、天井の模様を見つめていました。
終わったあとに来る疲労とモヤモヤ
協議が終わった瞬間の記憶は、ある意味では一番鮮明です。終わりは突然にやってきました。誰かが時計を見て、ぽつりと「今日はもうやめましょう」と言ったのです。それに全員が黙ってうなずき、散会となりました。
話し合いは結局どうなったのか
結果として、何も決まりませんでした。次回の日程すら決まらず、各自が静かに帰っていっただけ。こちらは、やり場のない疲労と、どこか申し訳ない気持ちを抱えたまま、片付けを始めました。
「また別日にやります」の一言で終了
この一言が出るまで、まさか本当に「ゼロ進行」で終わるとは思いませんでした。言い争いがないから穏やかかというと、そうではない。何も決まらないまま解散することほど、精神的にこたえるものはありません。
何のために来たのか分からなくなる瞬間
事前準備に何時間もかけて、書類を用意し、交通費も使って現地に行って…すべてが「空振り」になる。この業務にありがちな虚しさを、改めて感じた時間でした。
司法書士を目指す人へ伝えたいこと
このコラムを読んでいる方の中には、司法書士を目指している方もいると思います。夢を持つことは素晴らしいことですが、現実にはこうした「何もできない時間」と向き合う仕事であることも知っておいてほしいのです。
知識だけじゃ対応できない場面もある
六法全書にもマニュアルにも載っていない対応が、司法書士には求められます。正解のない空間で、ただ人間関係の機微を感じながら耐える時間。その覚悟も、この仕事には必要です。
「法律家」というより「空気読み職人」
司法書士は、法律と人間の狭間にいる職業です。書類だけで完結する仕事ではなく、人間の感情や関係性に影響されることが多々あります。ときには、法律の知識以上に「空気を読む力」が必要になるのです。
経験してようやく分かる無力さ
何年やっても、こうした場面に慣れることはありません。場を整えても、沈黙は解けない。誰かの役に立ちたいと思っても、それが叶わないこともある。それでも、そこにいる意味があると信じて、今日も現場に向かうのです。