にぎやかさの基準が、いつの間にか変わっていた
昔は「にぎやか」ってもっと華やかで、もっと賑やかなものだった気がする。学生時代なら、何人もの友達とワイワイ話して、くだらない冗談で盛り上がって、誰かが笑えば全員が笑うような、そんな時間が「にぎやか」だった。でも今、司法書士として一日を過ごす中で、「3人と話せた日」はもう充分に賑やかな日だと感じてしまう。事務所にこもってパソコンと向き合い、書類を黙々と処理する日常の中では、誰かと言葉を交わすという行為そのものが、贅沢なものになってしまった。
昔はもっと人と話してた気がする
大学時代の私は、毎日のように誰かと話していた。サークル、ゼミ、バイト仲間、そして恋愛……いや、それは少し記憶を美化してるかもしれないけど、とにかく今よりはずっとたくさんの人と接していた。でも今は違う。気づけば一日の会話が「お疲れ様です」と「こちらの確認をお願いします」で終わることすらある。話さないことに慣れてしまっている自分に、たまにぞっとする。
学生時代は「話すのが当たり前」だった
電車で一緒に帰って、コンビニで立ち話して、喫茶店で将来の夢を語った。そんな会話が特別じゃなかったあの頃。喋りすぎて喉が痛くなったことさえあった。でもその時は、喋ることに価値があるなんて考えもしなかった。「当たり前」はいつの間にか失われるものだということを、今になってようやく痛感している。
社会人になって、会話が「業務」に変わった
社会に出てからの会話は、どこか目的があるものばかりになった。報告、連絡、相談。業務の効率を考えた言葉ばかり。誰かの悩みを聞いてあげる余裕なんてなく、自分のことで精一杯だった。そして気づけば、「業務外の会話」は、日常から消えていた。会話が記号になったような日々に、感情をどこかに置いてきた気がしてならない。
司法書士という職業の静けさ
司法書士という仕事は、意外と静かだ。お客さんとの面談もあるが、1日の大半は一人で作業をしている。法務局とのやりとりもオンライン申請が増え、電話すら不要になった。事務所の中ではキーボードの音と、自分のため息しか聞こえない時間が流れている。だからこそ、誰かとの一言二言が、こんなにも心に残るのだろう。
誰かと黙って書類を見つめる時間
登記の立会いで、お客様と同じ書類を黙って眺めている時間がある。沈黙の中に安心感があることもあるけれど、それと同時に、言葉にしない孤独も感じる。事務員も同じ部屋にいても、お互い集中していれば、話さず数時間が過ぎるなんて普通のこと。それが悪いわけじゃない。けれど、人間はやっぱり声が欲しい生き物なんだと思い知らされる。
1人で抱える「間違えられない」プレッシャー
この仕事、ミスが許されない。だからこそ、相談する相手がいないまま抱え込むプレッシャーは大きい。たった一筆の誤字が、後のトラブルになることもある。その重圧のなかで、誰かと少しでも話せると、ふっと緊張がゆるむ瞬間がある。会話には、意図しないところで肩の荷を下ろしてくれる効果がある。たとえそれが、天気の話であっても。
たった3人と話しただけで、ほっとする日がある
今日、珍しくお客さんと2人、そして郵便配達の人と少し言葉を交わした。たったそれだけ。でも心が軽くなった気がした。人と話すことは、相手のためではなく、自分のためなんだと再確認した日だった。笑ってくれたとか、共感してくれたとか、そういうことじゃない。ただ「声を出した」だけで、少しだけ元気になれた。
雑談って、こんなにありがたかったっけ?
昔は、雑談なんて面倒だと思っていた時期もあった。「時間の無駄」だとすら感じていたこともある。でも今は違う。雑談は心のビタミンだ。業務の合間に事務員さんが「昨日テレビで面白い番組やってましたよ」と話しかけてくれた。それだけで、ふっと肩の力が抜けた。雑談って、空気を和らげるどころか、人を元気にしてくれる不思議な力がある。
事務員とのちょっとした会話に救われる
うちの事務員さんは、明るい人ではない。でも、ときどき「先生、これでいいですか?」と見せるちょっとした笑顔に、救われている自分がいる。業務連絡であっても、目を見て話すその行為に、ぬくもりを感じる。たぶん、私はただ誰かと繋がっていたいのだと思う。家に帰ってテレビをつけても、独り言では心が満たされない。
お客さんとの世間話が心の支えになるとき
登記の相談に来たお客様が、「実は最近退職しまして」と打ち明けてくれた。そこで少しだけ、仕事の苦労や、今後の不安について話した。こちらもつい、「私も実はけっこう大変なんです」と口を滑らせた。お互いに「頑張ってますね」と言い合うその時間が、なんともいえず温かかった。士業だからといって、強くあらねばならないわけじゃない。時には弱さを見せ合うことで、人は人らしくいられるのだと思った。