静かな朝、ひとり分のごはんをつくる日常
朝の時間帯がいちばん静かだ。誰かの目覚ましで起こされるわけでもない。起きたいときに起きて、トーストを焼いて、コーヒーを淹れる。そんなルーティンが、もう何年続いているだろう。誰かと朝食を囲んだ記憶は、もう遠い昔。地方の司法書士という職業柄、朝から現場に出ることもあるが、そうでない日も部屋の空気は変わらない。味噌汁の香りも、子どもの声も、ここには存在しない。
誰にも「おはよう」と言わない生活
「おはようございます」と言う相手がいない生活というのは、地味にこたえる。事務員さんは午前9時に出社するけど、それまでは人と声を交わすこともない。そんな朝が何年も続くと、人と会話を交わすためのウォーミングアップが必要になる。テレビのニュース番組に適当にツッコミを入れたり、自分の声を聞いてみたり、そういう無駄なことをしてやっと人間らしい顔になる。それすらも虚しい日がある。
朝食はトースト一枚、話す相手はテレビだけ
昔は誰かと食べる朝ごはんに憧れていたけれど、最近は「洗い物が少ないから助かる」と思ってしまう。トーストにマーガリンを塗り、テレビをつけて、スマホをいじる。どれも「音を出すため」だけの道具だ。人の声が欲しいんじゃなくて、ただのノイズが欲しいのだ。そんな自分に気づいたとき、もう少し違う道があったんじゃないかと後悔が押し寄せる。けれど、今さらやり直す元気も、正直ない。
婚活アプリに3回登録したけど、返事はゼロ
40代で独身という現実が重くのしかかってきたのは、たぶん40を過ぎてからだ。焦りというよりも、「このまま人生終わるのか?」という諦めに近い。そんな気持ちを打破しようと、婚活アプリに手を出した。プロフィールを一生懸命書いて、写真も何枚か撮り直した。でも結果は惨敗。マッチングゼロ。誰にも「いいね」されず、虚しさだけが残った。
プロフィール欄でつまずく45歳
「司法書士って何の仕事ですか?」という質問が3件中2件あった。たしかに地味だし、説明が難しい。資産家でもなければ、芸人でもない。ただ登記と向き合って、書類と格闘してるだけの毎日だ。どこをどう切り取っても「華」がない。プロフィールに「安定してます」と書いてみたが、そういうのがウケる年齢でもなかったようで。なんだかんだで、“出会いの戦場”には立てていなかったのだ。
「司法書士って地味ですね」と言われてしまった
唯一やりとりが続いた人に言われた一言がこれだった。「なんか地味な職業ですね」——。たしかにその通りだ。でも、こっちは人の相続とか、不動産とか、大事な場面に関わってるつもりでいる。でも、一般的には「地味」で終わってしまう。その瞬間、なんだか恥ずかしくなってメッセージを閉じた。自分の仕事すら誇れないのかと思ったら、恋愛どころじゃなくなってしまった。
「仕事があるだけで幸せ」と言い聞かせて
ここまで独りで生きてきて、何が自分を支えていたかと聞かれたら、「仕事」と答えるしかない。仕事があることで、誰かと関われる。必要とされてる実感が持てる。自分にはそれしかなかった。だけど、心のどこかでは「誰かに必要とされたい」っていう欲が残ってる。それはお客さんとの信頼関係じゃ、埋まらないんだ。
顧客との信頼関係だけが自分を保っている
「先生にお願いしてよかった」と言われると、ほっとする。それが唯一の救いでもある。ただし、それも“仕事があるうち”の話だ。信頼も業務が終われば終わる関係。お客様が帰って事務所に静けさが戻ると、その反動でどっと虚しさが押し寄せてくる。「ああ、今日も俺は“仕事として”必要とされたんだな」って。誰かの“生活”の一部にはなれないまま、今日も終わる。
家に帰って誰もいない現実との落差
仕事が終わって家に帰ると、そこには誰もいない。部屋着に着替え、テレビをつけ、ビールを一本開ける。ふぅ、とため息をつく。気づけば同じような夜を何百回も繰り返している。誰かの笑い声も、隣に座る人のぬくもりも、もう想像もつかない。自分がそこまで「欠けている」とも思っていなかったのに、ふとした瞬間にそれが寂しさとして刺さってくる。
同業者の結婚報告が、なぜか一番こたえる
年に一度、業界の集まりがある。そのたびに結婚報告や出産の話がちらほら出てくる。正直、素直に祝えない。嫉妬というより、置いていかれたような感覚。誰かの幸せを見せつけられるたびに、自分の“空白”を意識させられる。そんな自分が、ますます嫌になる。
年賀状の「家族が増えました」にため息
年末になると、年賀状の整理が始まる。「家族が増えました」「子どもが小学校に」などのコメントが並ぶ。こっちは、毎年同じような写真と一言だけ送っている。気を利かせてペットの写真でも添えようかと思ったけど、飼ってもいないし、余計に虚しくなりそうでやめた。「誰かの幸せが自分の不幸に見える」ってのは、まさにこの瞬間のことだと思う。
自分は“必要とされる場所”を探し続けている
人に必要とされたい、というのは贅沢なんだろうか。司法書士として、確かに仕事はある。でもそれは「専門家として」だ。人として、男として、誰かの人生に関わる存在になれたことは、ない。最近ふと思う。「結婚とか、家庭とか、そんな普通のことすら自分には“ご縁がなかった”んだな」と。必要とされる場所を探して、気づけば事務所が唯一の居場所になっていた。
ご縁がなかった人生に意味はあるのか
「ご縁」という言葉は、人とのつながりを美しく飾ってくれる便利な言葉だ。でも、それがない人生はどうなのか。選ばれず、愛されず、求められず、それでも働いて、社会に所属して、税金を納めている。そんな人生に意味はあるのか?そう自問自答しながらも、今日も登記簿を開き、ハンコを押す準備をしている。
「選ばれなかった人間」でも、社会で生きている
きっと、こういう話を口に出すこと自体が「弱い」と思われるのかもしれない。でも、選ばれなかった側にも言い分はある。必死に働いて、人の人生に関わって、それでもプライベートでは誰にも選ばれない。そんな人生もある。だけど、それでも毎日をちゃんと過ごしている。生きることそのものが、もう立派な意味なのだと思いたい。
そして今日も、ひとりで登記簿を見つめている
事務所に戻って、誰もいない部屋で登記簿を見つめているとき、不思議と落ち着く自分がいる。誰にも邪魔されず、誰かの人生の一部を、こうして黙って支えている。結婚も子どもも縁がなかったけど、誰かの「明日」を少しだけ整える仕事ができている。それで、少しだけ報われている気がする。そうやって、今日もまた独りきりの一日が静かに終わっていく。