PDFばかり見てたら、目が死んだ──司法書士のデジタル地獄の日常

PDFばかり見てたら、目が死んだ──司法書士のデジタル地獄の日常

気づけば、今日一日、PDFしか見てない

朝から晩まで、ずっと画面の中で生きていた。気がつけば、今日一日、人とまともに会話もせず、目にしたのはPDFとメールだけ。これが司法書士の日常になりつつある。紙が主役だった頃には考えられなかったが、今やあらゆる書類がPDFで届き、PDFで返し、PDFで保存される。作業は進んでいるはずなのに、なぜか心も体もすり減っていくような疲れだけが残る。目が、脳が、悲鳴をあげているのに、誰も気づかない。

紙は減った。でも仕事は軽くならない

「ペーパーレスで効率化!」そんな掛け声はよく聞くが、司法書士の現場においては、“紙が減った=仕事が減った”ではない。むしろ逆。画面越しに確認すべき資料は増え、ひとつの案件につき何十ページもスクロールしながら精査する。物理的なスペースは確かに空いたが、心の余裕も、体の余裕も、一緒には増えなかった。

書類の山が“画面の山”に変わっただけ

かつては机の上に積まれたファイルが「今日も忙しいな」と視覚的に訴えてきた。でも今は違う。ファイル名のリストが無機質に並ぶだけで、感覚的な危機感がない。そのせいで油断すると、10件以上のPDFを平行して処理していることもある。書類の重さはなくなったが、目と脳にかかる負担は倍増した気すらする。

「便利」と「しんどい」は共存する

PDFの検索機能、コピー&ペースト、クラウド保存。どれも便利なはずなのに、それを享受するには自分の目を犠牲にする必要がある。利便性と引き換えに、1日中画面に貼りつき、終業時には目がカラカラに乾いている。「こんなに便利なのに、どうしてしんどいんだろう?」と、自問しながら目薬をさす日々だ。

“紙が恋しい”と思った瞬間

便利さに慣れたと思っていた。でも、ある日ふと紙の契約書を手に取ったとき、妙にホッとした感覚があった。触れることができる、目が疲れにくい、そして何より、「一枚ずつめくって確認できる」という安心感。それはデジタルに囲まれた生活では味わえない、人間らしい安心感だった。

目がチカチカしても誰も気づかない

紙なら「ちょっと目が疲れたな」と思ったときに、自然と手を休めることができた。けれど、PCの前だと無意識に作業を続けてしまう。「あと1ファイルだけ」「ここまで見たら」…そんな言い訳を自分に重ね、結果として目が真っ赤になる。目が痛いなんて言ったところで、誰も変わってはくれないのだ。

紙の質感が懐かしく感じるとは思わなかった

「紙の匂いが落ち着く」と感じるようになったのは、ここ最近だ。昔は煩わしかった紙の束が、今では妙に安心する存在に変わっている。PDFでは味わえない、手触り、重さ、そして“読み終えた感”。これらが自分の仕事に確かさを与えてくれていたんだと、失って初めて気づいた。

司法書士業務と目の疲れの相性は最悪

細かい文字を読み、ひとつの言葉の意味を確認し、日付の整合性を見極める──司法書士の仕事は“目を酷使する”前提で成り立っている。そのうえPDFばかり見ていたら、そりゃあ目も死ぬ。老眼が気になり始めた世代にとって、これはもはや業務災害に近い感覚すらある。

契約書・登記簿・委任状…すべてPDF

昔はFAXで来ていた資料も、今は全部PDF。「確認お願いします」と添付されるたび、ありがたい反面、「また目を酷使する時間が来たか」とげんなりする。文字が潰れていたり、斜めにスキャンされていたり、妙に解像度が低かったりするのは日常茶飯事。それでも“見落としは許されない”のがこの仕事だ。

一文字の確認に神経をすり減らす

例えば、被相続人の氏名が戸籍と一致しているかどうか。旧字体か新字体か、微妙な表記の違いも見逃せない。そういった確認をPDF上で行うのは、なかなか神経が削れる作業だ。画面の拡大・縮小を繰り返し、指で目をこすりながら確認する自分の姿が情けなくなる。

マウスのスクロールで肩も死ぬ

マウスを握る手に力が入りすぎているのか、最近は右肩が常に重たい。PDFを何十ページもスクロールしているうちに、肩も首も固まってしまう。画面をじっと見つめ続けるせいで、瞬きの回数も減っているらしい。目も肩も、そろそろ限界だと訴えてきている。

集中力が切れると、間違いも怖い

長時間画面を見ていると、明らかに集中力が落ちてくる。最初の数ファイルはしっかりチェックできていたつもりでも、後半になると注意力が鈍ってくるのがわかる。そうなると、「あれ?さっき見たこれ、本当に合ってたっけ?」と何度も戻る羽目になる。

「うっかり見落とし」が命取り

司法書士の世界では、たった1文字の見落としが大問題になることもある。特にPDFは、紙のように「パラパラとめくる」ことができないため、確認の流れが途切れがちになる。そのせいで、ちょっとした見落としが生まれやすい。集中力と視力の勝負に、年々勝てなくなってきている。

疲れた目では判断力も落ちる

目が疲れてくると、読み取る速度が遅くなるだけでなく、内容の理解力も下がってくる。重要な条文や但し書きを見逃してしまったり、文章の解釈を誤ったり…。それでいて責任はすべて自分に降りかかるのだから、目の疲れは精神的なプレッシャーにも直結してくる。

それでも誰も代わってはくれない

目が死のうが、肩が痛かろうが、誰も「代わりにPDF見ときますね」なんて言ってくれない。事務員に頼めることには限界があるし、結局のところ責任を取るのは自分一人だという現実。だから、つらくてもやるしかない。それがこの仕事だ。

事務員には頼めない“目で拾う作業”

もちろん事務員には助けてもらっている。でも、最終的な確認作業や判断が必要な部分は、自分で見るしかない。委任状の印影、相続関係説明図の整合性、戸籍の連続性など、どれも“ちょっと見ておいて”では済まない作業ばかりだ。つまり、目の酷使から逃げられる余地がない。

最終確認は、やっぱり自分の責任

どれだけ信頼している事務員でも、「最終確認は先生にお願いします」となるのが普通。これは信頼とか能力とかの問題じゃなく、制度上の責任が私にあるからだ。だから、どれだけ目が痛くても、「自分が見た」と言えるようにしておかなければならない。つくづく割に合わない仕事だと思う。

自分の視力を犠牲にするしかない現実

40代も後半に差し掛かって、視力の衰えも気になってきた。老眼はまだ…とごまかしているが、実際は細かい文字がきつい。でも、だからといって業務をセーブできるわけでもない。毎日少しずつ、視力という資本を削って生きている気分だ。

「このまま目がダメになったら」と思う夜

仕事を終えて家に帰り、電気を消して布団に入ると、瞼の裏にまだPDFの白い画面が残っている気がする。目を閉じても休まらない、そんな夜が増えた。「このまま視力が落ちていったら、仕事どうしようか」そんな不安がよぎる。でも明日も、また同じ画面を見るのだ。

老眼が始まったらどうなるのか

最近、近くの文字にピントが合いにくいと感じることがある。スマホの文字がぼやける瞬間があって、「これが老眼ってやつか…」と妙に納得したりもする。もし本格的に老眼が始まったら、この仕事をどうやって続けていくべきなのか。怖いが、現実的に考えなければいけない時期に来ているのかもしれない。

それでも仕事は止められない

目が辛くても、肩が痛くても、期限は待ってくれない。登記の申請期日は決まっているし、お客さんの人生の節目に関わっているという責任感もある。だから、「目が痛いので今日はやめます」とは言えない。黙って目薬を差して、また画面に向かうしかないのだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。