社会の役に立ってる実感が持てないとき

社会の役に立ってる実感が持てないとき

社会の役に立ってる気がしない朝

目が覚めても、別にワクワクするわけでもない。ただ、やるべき仕事がそこにある。書類が山のように机に積まれていて、今日もまた誰かの登記や相続の処理を淡々とこなす。感情の起伏がない日々。ふと、「これ、本当に誰かの役に立ってるのか?」と自問する。依頼者の顔は思い出せるけど、その人の人生に自分がどれだけ影響を与えられているのか、正直わからない。司法書士って、そんな実感を持ちにくい職業だと思う。自分のやってることに意味があるのか、不安になる瞬間がある。

「ありがとう」と言われても心が動かない

手続きを終えた後に「ありがとうございます」と言ってもらえることもある。でも、それが形だけの礼儀に聞こえてしまう日もある。心の奥に響いてこない。なぜか。多分、自分自身が「自分の価値」を信じきれていないからだと思う。ありがたがられても、「この人、明日には俺のことなんて忘れてるんだろうな」と冷めた感情が湧く。こんなふうに感じるようになったのは、いつからだろうか。

手続き完了。それで終わり?

登記を終わらせて、書類を返して、完了。そこで一件落着。…のはずなんだけど、その後の依頼者の人生には関与しない。助けたはずなのに、助けた実感がない。「あなたのおかげで人生が変わりました」なんて映画みたいな話は、少なくとも僕のところには来ない。役に立ってるはずなのに、手応えがない。そんな仕事が司法書士には多い。

感謝よりも「早く終わらせて」という空気

そもそも依頼者の多くは、「感謝」より「効率」を求めてくる。とにかく早く、正確に、面倒なく終わらせてほしい。それが当然のニーズなんだろうけど、こちらも人間だ。淡々と処理して終わり、そんな毎日が積み重なると、心がどこか痺れてくる。「ああ、またひとつ終わっただけか」と、達成感のかけらもない日が続く。

数字に表れない価値が見えなくなる瞬間

例えば売上が目標を超えた月があったとしても、「だから何?」と思ってしまう。収入が増えても、それは単に処理件数が多かっただけの話。人の人生に寄り添った感覚はない。効率よくこなして、忙しくなって、疲れて寝る。社会的に「稼いでる人」なのかもしれないが、自分ではまるで空っぽな気持ちになることがある。

報酬が入ってもむなしさが残る

月末に通帳を見て、「お、まあまあ入ってるな」と思っても、それが嬉しさに繋がるわけじゃない。どこか虚しい。誰かに感謝されることもなく、褒められることもなく、ただ数字が動いただけ。学生時代に想像していた「専門職として人のために働く自分」とは、だいぶ違う現実がある。

頑張ったぶんだけ手応えがない

「この案件はけっこう骨が折れたなあ」と思う日もある。でも、その努力に対する評価は誰もしてくれない。自分しか知らない、地味で細かい仕事の積み重ね。だからこそ、自分自身で自分を認めないといけないのに、それがなかなかできない。「もっと意味のあることがしたい」という気持ちが、ずっとくすぶっている。

誰のために働いてるのか、ふと立ち止まる

依頼者のため?地域のため?自分の生活のため?どれも正しいようで、どれも核心を突いていない気がする。何かを守っているようで、ただ時間を消費しているだけのようにも思える。責任感だけで回しているような日々が続くと、「なんでこの仕事をしてるんだっけ?」と、自分自身に問い直すことになる。

「社会貢献」って誰が決めるもの?

医療や福祉の現場にいる人たちは、直接的に人を助けてる実感があるんじゃないか。そう思うと、法務の仕事はどうしても地味だ。登記や契約書の作成が「社会貢献」だなんて、自分で言うのはどこか恥ずかしい。それでも、誰かがやらなきゃいけない。だけど、「貢献してる」って言い切る勇気がない自分がいる。

役所とのやりとりに意味を感じられない

役所との書類のやり取りは、たしかに必要なことだ。だけど、あまりにも非効率で形式的な作業に思えるときがある。電話してもつながらない、メールの返事もこない、窓口で待たされる…そんな中で「何のためにこんなことしてるんだろう」と、気が遠くなる。社会のシステムを支えている一端なのに、実感がまるで伴わない。

やってもやっても終わらない、報われない

ひとつ仕事が終わっても、また次の依頼が来る。ゴールのないマラソンみたいだ。誰かに評価されるわけでもないし、感謝の言葉もない。SNSで活躍する誰かを見て「華やかでいいなぁ」とため息が出る。こっちは人知れず黙々と作業してるだけ。それが「社会を支える役割」だとしても、胸を張れるほどの自信はなかなか持てない。

それでも必要とされてる…はずだけど

それでも、依頼者が来てくれるということは、必要とはされているのだろう。登記や契約、相続の相談…。人は誰しも法的な手続きからは逃れられない。だからこそ僕たち司法書士の存在は、どこかで求められている。ただ、それが「役に立っている」という実感にまで繋がるには、もう一段階なにかが足りない。

トラブルが起きない限り思い出されない職業

司法書士って、いわば「予防線」みたいなもの。トラブルが起きないように先回りして処理する。でも、うまくいったときほど、存在感は薄れる。何も起きなかった=うまくやった、なのに、それは評価されにくい。火消し役は目立たない。それが地味なこの仕事の宿命なのかもしれない。

人の人生に立ち入ってるという重み

だけど時折、はっとする場面がある。遺言書や相続手続きを任されるとき、依頼者の人生や家族関係の深いところに触れることがある。他人のドラマの脇役として関わる、という表現が近い。そこで失敗は許されない責任感と、人間関係の微妙な空気の中で判断しなければならない。影の役者みたいな重みを感じる。

自己満足でもいいから「意味」を見出したい

誰かに褒められたいわけじゃない。でも、せめて自分の中では「意味のある仕事だった」と思いたい。結果がどうあれ、今日も一つ手続きを完了させた。それがその人の人生の一歩を支えていたなら、それでいい。そうやって、自分で自分を納得させるしかない。小さな自己満足でもいい。そうじゃないと、この仕事は続かない。

“役に立つ実感”を持てた瞬間

それでも、ごく稀にだけど、「ああ、やっててよかったな」と思える瞬間がある。そんな瞬間があるから、辞めずにここまで続けてこられたのかもしれない。たった一人でもいい。誰かの人生の転機に、自分が関われたという手応えがある。それが、社会に役立っているという実感の正体なんじゃないか。

相続で泣き崩れた依頼者の言葉

以前、突然ご主人を亡くされた女性が事務所に来たことがある。右も左もわからず、混乱したまま、相続手続きを一人で抱えていた。話を聞きながら一つ一つ説明していくと、最後に泣きながら「あなたがいてくれて本当によかった」と言われた。その言葉は今でも忘れられない。あれは、まぎれもなく“実感”だった。

「あなたにお願いしてよかった」

褒められることなんて滅多にない仕事だけど、ときどき「この先生にお願いしてよかったです」と言われることがある。そういうとき、報酬以上のものをもらった気がする。仕事って、本来そういうもんじゃなかったっけ?と原点に戻れる。すぐ忘れてしまうんだけど、その言葉だけは、心に刺さって残っている。

たった一言が、何日分の疲れを吹き飛ばす

どれだけ忙しくても、どれだけイライラしてても、たった一言の「ありがとう」が、何日分もの疲れを吹き飛ばしてくれる。効率や数字じゃない、人間としてのやりとり。そこにこそ、自分が社会に必要とされている証がある気がする。地味で見えづらい仕事だけど、役に立ってるんだと、ほんの少しだけ信じられる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。