気がつけば一日が終わっている
朝起きて事務所に行き、机に座ったかと思えば、もう夕方。そんな日々が続いています。「今日は落ち着いて業務整理ができそうだ」と思った日の方がむしろ危険で、電話一本であっという間に地獄モードへ突入するのがこの仕事。終わったと思った登記の補正連絡、予定になかった相談者の飛び込み、謎のFAX…。感情を動かす暇もなく処理しているうちに、一日が終わっていることに気づく。いや、正確には終わらせてしまっているんです、自分で。
「忙しい」は言い訳ではなく現実
「忙しいって言うと人が離れるよ」なんて言われますが、正直、事実ですから仕方ない。暇そうに見せる方がウソになります。登記は遺言や相続の相談、家庭裁判所への書類作成まで、多岐にわたる業務を一人(+事務員さん)で回す日常。タスク管理アプリ?そんなの見てる暇すらない。予定の30%くらいしかこなせずに終わるのが普通なんですよ。
朝イチの電話で全スケジュールが崩れる
「おはようございます、〇〇ですが…」この一言で、今日の予定がすべて狂う。そんな電話が週に3回はかかってきます。登記完了予定が急に前倒しになったり、亡くなった方の親族が現れたり…。それらを「後回し」にできないのがこの仕事のつらいところ。感情なんて入れていたら、対応しきれない。スケジュールが崩れるたび、心も少しずつすり減っているのを感じます。
想定外こそ日常、段取り通りに進まない毎日
段取りを立てるのが好きだったのに、この仕事を始めてからというもの、段取りが破綻する毎日に慣れてしまった自分がいます。打ち合わせに行ったら相手が来ない、届くはずの資料が来ない、役所の受付で書類が戻される…。もはや、想定外が「想定内」。だからこそ、感情の起伏を削ってでも、平常心を装うしかない。そうしないと潰れてしまうんです。
昼ごはんを食べた記憶がない
気がついたら15時、コーヒーを飲んだだけ、という日も珍しくありません。事務員さんがコンビニのおにぎりを買ってきてくれるけど、それを食べたのか食べてないのかすら覚えていない。食事も睡眠も、いまや業務の合間に「こなすもの」。昔は「美味しいものでも食べに行こう」と誘われるのが楽しみだったのに、今は「昼に外出するなんてとんでもない」と思ってしまう。完全に職業病です。
感情のスイッチを切ったまま働く理由
感情を切っているわけじゃない。でも、表に出している余裕がないんです。ひとつひとつに反応していたら、体がもたない。怒るべきところで怒れないし、感動する場面でも「はい、次」と頭を切り替えていくしかない。そうしないと、終わらない。だから最近では「感情を感じない」ことに慣れてしまっている自分が、少し怖くもあるんです。
いちいち感情を揺らしていたらもたない
たとえば、依頼者の理不尽なクレームに真面目に向き合っていた時期もありました。でもそれをしていたら、一日ひとつの業務で終わってしまうし、自分のメンタルも持ちません。「ああ、この人も不安なんだな」と切り替えて処理するしかない。でも、そんなことを続けていたら、自分の感情のスイッチがどこにあるのか、わからなくなってくるんです。
笑う余裕も怒る余裕もない司法書士という仕事
一日を振り返って、「あれ、自分、今日一回も笑ってないな」と思う日が続くときがあります。怒ることすら忘れるくらい、ただただ作業をこなす。依頼者の人生の大事な場面に関わっているというのに、自分はただの機械のように…。それが果たして“正しい姿勢”なのかと問われると、自信がなくなる瞬間もあります。
「感情を使わない」ことが身についてしまった
最初のころは、感情を大事にしようとしていました。「人として寄り添う」ことを意識していました。でも、気がついたらそれが自分の負担になっていて、無意識のうちに「感情を使わない自分」ができあがっていた。まるで感情を使わないことがスキルのようにすら感じてしまう。そんな自分に、ちょっとした違和感を覚えます。
淡々とこなすしかない日々のルーチン
朝のルーティン、メールチェック、補正対応、郵送準備、電話対応、書類作成…。これが平日毎日の繰り返し。毎回違う案件のはずなのに、やっていることが同じに見えてしまう。そこに感情を入れていたら、いちいち振り回されてしまうから、自然と心を空っぽにして仕事をする癖がついてきてしまったんです。
業務の効率化と引き換えにした心の鈍化
効率化は武器です。テンプレート、フロー、パターン化。でもそれと引き換えに「人としての応答」が減ってきた。最短で処理することが正義になり、丁寧に向き合うことが「非効率」として切り捨てられる風潮。気づかぬうちに、相手の気持ちに鈍感になってきた自分が怖いのです。
笑顔が「業務用」になってしまった瞬間
相談者の前では笑顔。でも、その笑顔が「仕事のための表情」になっていることに気づいたとき、なんだか自分が壊れていく気がしました。本当の意味での笑顔じゃない。作ってるだけ。でも、相手は救われているような顔をして帰っていく。だったらそれでいいのか?と、自分に問いかけながらまた次の笑顔を作る。
それでもたまに訪れる感情の揺らぎ
無感情になっている日々の中でも、ふとした瞬間に心が動くことがあります。依頼者の一言、誰かの気遣い、自分の失敗。そんな小さなきっかけが、心に波紋を起こしてくれるんです。ああ、自分はまだ感情を捨てていないんだなと気づかせてくれる瞬間でもあります。
ふと泣きそうになる瞬間
ある日、相続手続きで来た年配の女性が、最後に「これで、ようやく主人を見送れます」と静かに涙を流しました。その姿を見た瞬間、自分もなぜか涙が出そうになった。理屈じゃなくて、感情が勝手に反応していた。そんな瞬間に、「まだ自分は人間だ」と実感できる。心を完全に切っていたら、きっと感じられなかったと思います。
依頼者の言葉にハッとすることも
「先生も大変ですね、どうかお体ご自愛ください」って言われた時、正直、びっくりしました。自分のことなんて誰も気にしていないと思っていたから。その一言が、意外にも胸に刺さるんです。そういう優しさに触れたとき、少しずつだけど、感情の回復が始まる気がします。
「ありがとう」の一言で張り詰めていた糸が切れる
登記が完了して「ありがとうございます、本当に助かりました」と深々と頭を下げられたとき、不意にこみ上げてくるものがあります。心の中で「こちらこそ、ありがとうございます」と返しながら、張っていた気が緩みそうになる。その瞬間に、自分の中にまだ柔らかい部分が残っていることを知って、少しだけ救われるんです。
事務員さんの気遣いに救われる日も
うちの事務員さんは、もう10年の付き合い。何も言わずにコーヒーを出してくれるとき、その一杯にどれだけ救われているか。忙しさの中で見失いそうになる「人とのつながり」。それを思い出させてくれるのは、結局、身近にいる誰かの気持ちなんだと気づかされます。
小さな一言が、意外と沁みる
「今日は無理しないでくださいね」とぽつりと言われたとき、なんでこんなに泣きそうになったんだろうと自分でも驚きました。毎日頑張っているのに、それを誰も見ていないと思っていた。でも、見ていてくれる人がいる。そう思えたときに、また明日も頑張ろうと思えるんです。
司法書士という職業が抱える構造的な無感情化
ミスが許されず、冷静さと正確さを常に求められるこの仕事。その一方で、感情の波を殺していくことが「プロフェッショナル」だとされる矛盾に、苦しみながらも慣れていかざるを得ない。そんな構造的な冷たさが、司法書士という職業の難しさだと思います。
感情よりも正確性が求められる世界
「人の気持ちよりも数字が大事」と言うと語弊があるかもしれませんが、書類の1ミリのズレが受理されるかどうかを左右する世界。だからこそ、正確性を優先するがゆえに、感情を省く訓練を積まされてしまう。そこに人間らしさをどう残すか、いつも葛藤しています。
感情が業務の邪魔になる瞬間がある
悲しみに共感しすぎて、判断が鈍ってしまったことがあります。書類作成が遅れ、結果的に依頼者にも迷惑がかかってしまった。それ以来、「感情は後回し」と心に決めた。でも、それって正しいんでしょうか。答えは、今も出ていません。
それでも人間でいたいという矛盾
感情を使わずに働く方がラク。でも、無感情で生きていくことはできない。司法書士としての正しさと、人間としてのやわらかさ。その間で揺れながら、今日も仕事をしています。矛盾を抱えながら、それでもやっぱり、人間でいたいと願う自分がいるのです。
独身男性司法書士の孤独と感情の距離
独り暮らしの部屋に帰って、ため息。テレビの音すらうるさく感じて、電気もつけずに座り込む夜もあります。誰かと笑い合う時間も、愚痴をこぼす相手もいない。そんな生活がもう当たり前になってきて、感情との距離感もぼやけてきている気がします。
「モテない」のではなく「誰かと関わる余裕がない」
よく「仕事ばかりしてるとモテないよ」と言われます。でも、そもそも誰かと関わるための余裕がないんです。デートの約束をすっぽかしたらどうしよう、相手を不安にさせたら…そんなことを考えると、最初から誰かと関わらない方がいいと思ってしまう。寂しい話ですが、これが現実。今はただ、目の前の仕事をこなすことで精一杯なんです。