静かなオフィスに、時計の音だけが味方だった午後

静かなオフィスに、時計の音だけが味方だった午後

誰もいない午後、オフィスに響く時計の音

午後の2時を回った頃、外はまだ明るいのに、事務所の中はどこか薄暗く感じる。パソコンのファンが回る音と、壁に掛けた時計の「チク、タク」という音だけが静かに響いている。電話も来客もなく、事務員さんは今日は休み。こんな日に限って、書類は山積み。誰とも会話しない時間が、逆に自分の孤独を照らし出すような気がする。仕事が嫌いなわけじゃない、でも「このままでいいのか」と考え出すと、時計の音すら問いかけのように聞こえてくる。

静けさが心に刺さる日もある

普段なら、静かな職場は集中できてありがたい。でも今日は違う。朝から誰とも話していないし、声を出したのもコンビニで「温めお願いします」と言ったくらい。この静けさは、自分が社会から少しずつ外れていってる証みたいに感じてしまう。仕事に追われながらも、心の中は満たされない。ふと窓の外を見ると、学生たちが笑いながら歩いている。ああ、自分にはあんなふうに笑い合える誰かがいるのだろうか、と情けない問いが浮かぶ。

人の気配が恋しくなるのは甘えか

司法書士という仕事は、基本的に孤独だ。相談に来るお客さんはいても、業務は一人で黙々とこなすことが多い。それに慣れてしまったはずなのに、ふとした瞬間に「誰かと雑談したい」「無駄話がしたい」と思ってしまう自分がいる。そんな自分を「弱い」と責める気持ちもある。でも、毎日一人でいるというのは、思っている以上に心にじわじわと効いてくるのだ。寂しいと感じるのは、もしかしたら人間として当たり前なのかもしれない。

「一人が気楽」は本音か建前か

独身で、一人で事務所を回していて、「気楽でいいですね」と言われることがある。確かに、誰にも口出しされず、自分のペースで仕事ができるのは気楽だ。でも、それは建前かもしれない。本音は、誰かと一緒に悩みながら進めたいと思うこともあるし、夜に誰かとご飯を食べに行きたいとも思う。気楽さの裏側には、誰にも言えない不安や虚しさが隠れている。だから「一人で気楽」って、本当は少し寂しい言い訳なんだろう。

司法書士という仕事は、孤独との戦いだ

誰かと一緒に働いているように見えても、最終的な判断をするのはいつも自分だ。どんなに確認しても、責任は自分に返ってくる。自信がない日も、眠れない夜もある。でもミスは許されない。その重圧の中で、誰にも「怖い」と言えずに、ただ書類を見つめている。孤独を感じるのは弱さではなく、日常の一部になってしまっている。この仕事に向いているのか、と自問する日は少なくない。

誰にも頼れないプレッシャー

事務所の運営から実務まで、すべてを一人でこなすことが多い。事務員さんが手伝ってくれるとはいえ、最終判断や責任はすべてこちら。しかも相手が不動産や遺産など、人生の節目に関わる内容ばかり。間違えたら取り返しがつかない。夜に一人で事務所に残って、押印前の書類を見直すとき、ふと「こんな責任、誰が背負ってくれるんだろう」と呟いてしまう。でも結局は、自分で背負うしかない。

間違えられないという静かな恐怖

この業界にいると、「完璧であって当たり前」と思われることが多い。人の権利や財産に関わるから当然だ。でもそれが、日々の業務をじわじわと苦しくさせる。「これで大丈夫か」「見落としてないか」と、確認しても不安は消えない。何度もチェックして、それでも眠れない夜がある。誰かに「大丈夫だよ」と言ってもらえたら、少しは気が楽になるのにと思う。でも、司法書士にそんな言葉をかける人は少ない。

「プロだから当然」で片づけられる現実

たまに失敗すれば、「司法書士なのにそんなことも?」と責められ、成功しても「それが仕事でしょ」と言われる。どんなに頑張っても、評価されることは少ない。だから自己肯定感が下がりがちで、心の中では「もう少しだけ誰かに認められたい」と思ってしまう。プロとして当然といわれても、人間である以上、感情はある。認められたい気持ちを持つことすら、許されないような空気があるのは、少しつらい。

事務員さんが休んだ日の心細さ

今日は事務員さんが風邪でお休み。普段なら当たり前のように「この書類、コピーお願い」と頼んでいたけれど、いざ一人になると、その存在の大きさに気づかされる。たった一人の助けがあるだけで、こんなにも安心して仕事ができていたのか、と実感する。コピー機の音さえ今日は心細く聞こえる。人は失ってみて初めて気づく、と言うけれど、まさにそれだ。

たった一人の存在が支えになっていた

普段は淡々と仕事をしている事務員さん。多くを語らないけど、こちらの意図を察して動いてくれる。その「気配り」にどれほど救われていたか、今日は痛感している。仕事が円滑に進んでいたのは、自分だけの力じゃないと気づく。たった一人の存在が、こんなにも事務所の空気を変えていた。いないことで、ようやくわかるというのは情けないけど、本音だ。

小さな会話が、日々を支えている

「今日寒いですね」とか「お昼、何にします?」といった、たわいもない会話。そんな言葉が、実は心の支えになっていたんだと思う。黙っていても仕事は進むけど、人間はロボットじゃない。感情があるからこそ、日常にちょっとした言葉のやりとりが必要なんだと実感する。誰かと何気なく話すだけで、安心する。それって、独身で一人事務所を切り盛りしている自分にとっては、想像以上に大きな意味を持っていた。

それでも、辞めない理由を探している

しんどいことは多い。でもこの仕事を辞めようと思ったことは、実はあまりない。むしろ「辞めるわけにはいかない」と思っている自分がいる。誰かに必要とされる瞬間があるから。ありがとう、と言われることがあるから。その一言が、何日も心の支えになる。そして、静かな午後に一人、時計の音を聞きながら、「自分にはまだできることがある」と思い直す。そんな日々の繰り返しの中で、今日もまた机に向かっている。

仕事がすべてじゃない…と思いたい夜

夜、帰宅しても部屋は静まり返っている。テレビをつける気にもならず、冷蔵庫の中身を見てため息をつく。こんな毎日に、意味はあるのかと問いたくなる。でも、明日も仕事がある。誰かの役に立てるかもしれない。それだけが、今日の静けさに耐える理由になっている。「仕事がすべてじゃない」と言ってみたい。でも、今の自分には、仕事こそが支えでもある。だからまた、静かなオフィスで時計の音に耳を澄ますしかない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

優しい言葉がつらく感じた

優しい言葉がつらく感じた

優しい言葉が、なぜか胸に刺さる日

人からかけられる優しい言葉に、なぜか心がざわついてしまう日がある。そんな日は決まって、仕事がうまくいっていなかったり、頭の中で反省会が終わらなかったりする日だ。誰かの親切や気遣いが、ありがたいどころか、こちらの弱さや不甲斐なさを突きつけてくるように感じる。きっと、受け取る側の心が疲れ切っているんだろう。それでも、相手にとっては善意の言葉なのだから、そんなふうに感じてしまう自分が嫌になってしまう。

「頑張ってるね」と言われるたび、つらくなる

ある日、登記の締切に追われながら、クライアントから「先生、いつも頑張ってますね」と言われた。思わず「いえいえ」と笑ったけれど、その言葉がしばらく胸に刺さったままだった。実は前日の夜、申請書の不備を見逃してしまい、管轄法務局から電話で注意を受けたばかりだった。頑張ってる“つもり”だっただけで、実際は空回りばかり。それを見透かされているようで、嬉しいどころか情けなくなった。

努力してないわけじゃない、でも報われた気がしない

朝から晩まで書類に追われ、土日も事務所でPCに向かう日々。それでも、手続きミスがあれば全てが帳消しになる世界。だから「頑張ってる」と言われても、「じゃあ何が残ったんだ?」という思いがこみ上げる。努力はしている。だけど、それが実績になっている実感がない。数字に出るわけでもなく、誰かが認めてくれるわけでもない。「自分は今、何のために働いてるんだろう」と考えると、ますます空しくなる。

誰のために頑張っているのか、ふとわからなくなる

開業当初は、「依頼者の役に立ちたい」と思っていた。でも今はどうだろう。日々の案件に追われ、業務効率ばかり気にしている自分がいる。依頼者の笑顔や感謝の言葉さえ、何だか遠い世界のことのようだ。気がつけば「この業務、納期いつだっけ」としか考えていない。いつの間にか、志を忘れて「処理屋」になっていたのかもしれない。そんな自分に、「頑張ってますね」は皮肉のように響いてしまう。

「無理しないでね」が逆にプレッシャーになる理由

仕事が立て込んでいるとき、周囲から「無理しないでね」と言われると、どう返せばいいのかわからなくなる。本当に無理している最中なのに、無理をやめたら全部が止まってしまう。だからこそ、「無理しないで」が「それでも結果は出してね」と聞こえてしまうのだ。自分がひねくれているのかもしれない。でも、仕事を抱えている人間にとって「休んでいいよ」は、結局「休むな」と同義に思える。

無理をしているから、やれている仕事もある

無理してなかったら、この業界で独立してやっていくなんて無理だった。朝も早いし、夜も遅い。緊急案件の対応で深夜に法務局のサイトとにらめっこすることだって珍しくない。無理が積み重なって、ようやく今の事務所の形がある。そんな中で「無理しないで」と言われても、「じゃあ何を削ればいいの?」という話になってしまう。家に帰っても誰もいないのだから、仕事をしていた方が気が紛れるという面もある。

「休んでいいよ」に隠れた見えない期待

以前、事務員さんに「先生、たまには休んでください」と言われたことがあった。優しさからの言葉だとわかっている。でも、その直後に「この申請、私が一人で進めてみますね」と言われて、心のどこかで焦った。「俺がいなくても回るんじゃないか」という不安。ありがたい反面、自分の存在意義が薄れていくようで、落ち着かない。休めと言われて、安心して休めるほど、僕は器用じゃない。

司法書士という仕事と、優しさとの距離感

人の人生に関わる場面が多いからこそ、言葉の一つ一つが重く響く仕事だ。だからこそ、優しさに触れる機会も多い。依頼者の感謝の言葉、事務員さんの気遣い、周囲の応援。それらを素直に受け取れたらどれほど楽かと思う。でも現実は、期待に応えきれない自分が情けなくて、優しさが痛みになってしまう。そんな自分がまた嫌で、ひとりでぐるぐると悩んでしまう。

相談者の言葉に励まされながらも、心がしんどい

とある相続案件の依頼者に、「こんなに親身になってもらえるとは思いませんでした」と涙ぐまれたことがある。確かに、時間をかけて一つずつ丁寧に進めた案件だった。心から感謝されたのに、その言葉を聞いた後、僕は思わず深いため息をついていた。「自分にはもったいない言葉だ」と思ってしまったのだ。人からの評価と、自分の自己評価の乖離が大きいほど、そのギャップが心に重くのしかかる。

「先生のおかげです」の重さ

「先生のおかげです」——この言葉は本来、喜ばしいもののはずだ。けれど僕にとっては、過剰なプレッシャーでもある。なにか一つ判断を間違えば、取り返しのつかないことになりかねない職業だ。だからこそ、その言葉を受け取るとき、心から嬉しいと思えなくなっていた。感謝されるほどに、「次こそ失敗できない」と自分を追い詰めてしまうのだ。

感謝されることが、つらいこともある

仕事をする中で、「ありがとう」と言われることは少なくない。だけど、それに心から微笑んで返せた日はいつだっただろう。感謝されるたびに、「もっとできたのでは」「あの判断は最適だったのか」と自問してしまう。人からの温かい言葉に、素直に「どういたしまして」と言えなくなっている自分がいる。その瞬間、僕は「いい司法書士」ではないと感じてしまう。

事務員さんの気遣いに救われる一方で、申し訳なさも

事務員さんがいてくれることは、本当にありがたい。書類の抜けや細かな対応まで丁寧に気を配ってくれる彼女がいるから、何とかやっていけている。でも、そんな彼女の「大丈夫ですよ」の一言に、心がきしむときがある。僕の不手際をカバーしてくれているのに、それを当然と思ってしまいそうな自分が怖いのだ。優しさに甘えきってしまって、情けない気持ちになる。

「大丈夫ですよ」の裏にある思いやりに気づけない

「先生、こっちは大丈夫なので、外回りに行ってください」と言われた日、僕はその言葉に甘えてしまった。でも帰ってきて、彼女が黙々とトラブル対応をしていたのを見たとき、自分が恥ずかしくなった。「大丈夫ですよ」には、僕への思いやりだけでなく、彼女の我慢も含まれていたのだ。優しさの裏にある感情まで、ちゃんと見ないといけない。気づけなかったことが悔しかった。

優しい人と働くほど、自分の至らなさが浮き彫りになる

僕の周りには、優しい人が多い。だからこそ、自分の短気さや粗雑なところが際立ってしまう。事務員さんの丁寧さや、依頼者の穏やかな言葉に触れるたび、自分の未熟さを突きつけられているような気分になる。優しさに囲まれていながら、素直に感謝できない自分に嫌気がさして、ますます孤独を感じてしまうのだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。