「固そう」=「つまらなそう」に変換される

「固そう」=「つまらなそう」に変換される

「固い仕事」に対する世間のイメージ

司法書士という職業を説明する場面になると、決まって返ってくる反応がある。「ああ、固い仕事ですよね」とか「真面目そうですね」とか。こちらとしては別にふざけているつもりはないけれど、どうにも“固い”というワードでくくられる。そこには“つまらなそう”というニュアンスが含まれている気がして、なんともモヤモヤする。世の中の「お堅い仕事」=「近寄りがたい」「面白みがない」というイメージが、司法書士にもがっつり貼り付いているのだと痛感する瞬間である。

司法書士と聞いて浮かぶ“堅苦しさ”

例えば先日、マッチングアプリで「仕事は何をされているんですか?」と聞かれ、「司法書士です」と答えたら、相手の顔が一瞬引きつったように感じた。「すごいですね、頭よさそう…」のあとに続いたのが「でも…固そうですね」という一言。その人が悪いわけではない。世間的に、司法書士=法律=固い=つまらない、という連想があまりにも自然に成り立ってしまっているのだ。初対面でいきなり「つまらなそう」と言われたわけじゃない。でも「固そう」と言われる時点で、同じニュアンスを感じてしまうのだ。

スーツ姿=真面目そう=近寄りがたい?

思い返せば、街でスーツ姿の人と目が合っても、こちらから話しかけようとは思わない。なんだか真面目そうで、近寄りがたくて、面白いことなんて言わなそう。実際、僕自身もスーツを着ていると「仕事モード」に入りすぎてしまって、顔も自然と険しくなる。そんな姿を見た人が「この人、つまらなそう」と思うのは無理もないのかもしれない。仕事柄仕方ない部分もあるが、肩書きと服装だけで判断されてしまうのは、やっぱり少し寂しい。

「ちゃんとしてる人」=「面白くなさそう」の方程式

世の中には「ちゃんとしてる人」に対して、どこか冷めた目線を向ける傾向がある気がする。誠実で真面目で、遅刻もしないし、言葉遣いも丁寧で…そういう人って、面白くなさそう、って思われがち。僕は昔から人に嫌われないように、きちんとしてきたつもりだ。でも気づけば、「真面目な人」「ちゃんとしてる人」という枠にすっぽり収まり、そこから出ることに躊躇するようになっていた。だから「固そう」と言われるたびに、何も言い返せずに笑ってごまかすしかないのが悔しい。

士業は本当に“つまらない”のか?

では、司法書士という仕事は本当につまらないのか? 答えは、当然「そんなことはない」。毎日が同じようでいて、実はまったく違う。書類だけを見ているようで、実際にはその背景にある人の人生を見ている。だけど、その“奥行き”が外からは見えにくい。それが“つまらなそう”と思われてしまう最大の要因だろう。

書類と向き合う毎日は退屈か

確かに、書類とにらめっこする時間は多い。登記申請書、相続関係説明図、委任状…。延々と続く書類の山に、うんざりする日もある。でも、その一枚一枚には意味がある。依頼者の想いが詰まっていて、それを形にすることが仕事だと思えば、責任もあるし、やりがいもある。退屈どころか、油断すれば大事故につながる世界だ。単調に見えて、その実、非常にスリリングなのだ。

ルールを守るだけの人生に見えるかもしれないけど

司法書士の仕事は法律に基づく。だから、自由度は少ないかもしれない。ルールが絶対で、逸脱は許されない。でも、その中でどう解釈し、どう工夫するかに人間性が出る。たとえば、ある高齢の依頼者が文字が見えにくいということで、書類のレイアウトを大きく変えたことがある。誰も気に留めないような配慮かもしれないが、そのときの「ありがとう」が、今でも忘れられない。

見えないドラマは、外からは伝わらない

僕たちが日々向き合っているのは、人の生活の“節目”だ。相続、登記、離婚、財産分与…。どれも感情が揺れる場面ばかり。でも、それは外からは見えない。表に出るのは、ただの書類だけ。だからこそ、“つまらなそう”に見えてしまうのだと思う。だけど、その裏にある人の気持ちに触れたとき、自分がこの仕事をしていてよかったと感じる瞬間がある。

「面白さ」はどこにある?

司法書士という職業に、世間が想像する“面白さ”は少ないかもしれない。でも、“人間味”のある面白さなら、日常にあふれている。小さな気配り、会話の工夫、相手の立場に寄り添う心。そういうものに気づいたとき、この仕事には“味”があると感じる。

人と人の間に立つ、感情の橋渡し役

例えば、相続人同士で揉めている案件では、司法書士がその間に入ることもある。法律の専門家という立場で冷静に伝えることで、感情的になった話が整理され、前に進むことがある。そこに必要なのは、堅苦しい専門用語ではなく、相手の心に届く言葉だ。つまり、“人と人の間をつなぐ”という面白さが、そこにはある。

依頼者の“人生の転機”に関われる喜び

登記一つとっても、その裏には必ず人生の節目がある。家を買った、親が亡くなった、会社を立ち上げた…。そんな場面に立ち会い、法的に支えることができる。もちろん責任は重いが、それ以上に意味のある仕事だと思っている。そのたびに「俺のやってることって、意外とドラマチックだな」とこっそり思っている。

法律の枠内で「人間らしさ」を出す技術

堅いといわれる仕事の中でも、温度を持ったやりとりは可能だ。言葉づかい、声のトーン、目線…。小さなところに人間性をにじませることで、依頼者との距離が縮まる。固そうでつまらなそうと思われる世界の中に、“あたたかさ”を感じてもらえるとしたら、それは小さな成功だ。

誤解されがちな司法書士の日常

僕たちの仕事は、どうしても“無味乾燥”に見えがちだ。でも実際には、喜怒哀楽にあふれている。依頼者の事情は千差万別で、日々ドラマが展開される。笑顔ばかりではないけれど、笑いが生まれる瞬間も確かにある。

お堅く見えて、実は柔らかい場面も多い

たとえば、突然来所された高齢のご夫婦が、何を話したらいいか分からずに戸惑っていた場面。「緊張されてます?」と軽く声をかけただけで、場の空気が和らぎ、ふたりとも笑顔になった。形式の中にも、こうした柔らかさを育む瞬間はあるのだ。

依頼者と雑談しながら和らげる空気

登記の説明に入る前に、天気やテレビの話を少し挟むだけで、相手の反応が変わる。固い内容に入るからこそ、その前の“ちょっとした会話”が効いてくる。司法書士も“話し方”が大事だなと思うようになった。

「笑わせる」ことも、業務の一部

ふざけるつもりはないけれど、時には冗談も交える。難しい話ばかりじゃ、誰だって疲れる。「書類って、ほんとに小さい字ばっかりですよね」なんて軽口が場を和ませる。笑わせることも、司法書士の立派なスキルの一つかもしれない。

自分たちが“固く”してしまっている側面もある

「固そう」と言われるたびに、「いやいや、そんなことないですよ」と言いたくなる。でも、もしかすると、こちらがそう見せてしまっているのかもしれない。肩書きに守られ、きちんとしなきゃと自分を縛っているのは、自分自身かもしれない。

名刺の肩書に守られてしまう安心感

名刺に「司法書士」と書いてあると、なんだか安心する。でもそれは、相手に安心感を与えると同時に、距離も生む。「先生」なんて呼ばれたりすると、余計に壁ができてしまう気がする。もっと自然体でいたいと思うようになった。

「専門家」としての演技が日常になってしまう

ちゃんとしていなきゃ、誤解される。そう思って、肩肘を張りすぎていたのかもしれない。「ちゃんとしなきゃ」の演技が習慣になって、本当の自分を出せなくなっていた。でも、依頼者が求めているのは、完璧な専門家だけじゃない。安心して話せる“人”なのだ。

もっと“人間味”を出していいのかもしれない

これからは、もっと砕けてもいいのかもしれない。誠実さを大切にしつつも、人間らしさを忘れない。そういう司法書士像があってもいい。固そう=つまらなそう、のイメージを少しでも変える一歩として、自分から変わっていけたらと思っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。