ただの雑談が、涙が出るほどありがたい日もある
誰かとしゃべりたい、でも用事はない
毎日毎日、書類とにらめっこして、法務局との往復。電話はトラブルの始まりで、メールは締切の催促。そんな中で、ふと気づくと、今日一日、誰ともまともに話していないことがある。仕事はしてる。でも、生きてる実感が薄い。そんな時、不意に「誰かとしゃべりたい」と思う。でも、別に用事があるわけじゃない。ただ、少し声が聞きたい。ただそれだけ。だからこそ、自分でも「変だな」と思うんだけど、そういう日が、最近やたらと多い。
「何かご用ですか?」と聞かれると少し傷つく
たまに誰かに声をかける。郵便局で、隣の司法書士仲間に、あるいは事務所に来たお客さんに。でも、こっちが「今日は天気いいですね」なんて言うと、「何かご用ですか?」と返される。いや、違うんだ。用なんてない。むしろ、用がないからこそ話したかった。雑談って、用がないからこそ意味がある。そう思ってるのは自分だけなんだろうか。そんな気がして、少し寂しくなってしまう。
話しかけたいのは、用件じゃなくて“誰か”なんだ
昔は雑談が苦手だった。仕事は効率重視、無駄は削るべきだと思っていた。だけど、40代も半ばになって、人と人の間にある“隙間”のような会話が、どれほど大事かを痛感するようになった。特に、独身の身にはこたえる。家に帰っても話し相手はいない。誰かと話すのは、業務連絡ばかり。それじゃ、心がカサカサになるのも当然だ。話しかけたいのは、何かじゃなくて、誰かなんだ。
事務員との会話が減ったと気づいた朝
ある朝、ふと「最近、彼女と何話したっけ」と思い返した。雇っている事務員さん。勤続8年のベテランで、仕事は完璧。でも、気づけば最近は「これお願いします」「ありがとうございました」だけになっていた。彼女が悪いわけじゃない。むしろ自分が、雑談を切り捨ててきた。気づいたときには、戻れない距離になっていたような気がして、なんだか切なくなった。
コンビニのレジで救われることがある
今日も誰とも話さなかったな、と思いながら帰り道に寄ったコンビニ。レジの女性が「袋いりますか?」と聞いてくれた。その一言に、なぜかホッとした。自分の存在を認識してくれる人がいる、それだけで救われる。こんな些細なことで、と思うけど、それが現実だったりする。
「あ、ポイントカードお持ちですか?」の声に安心する
「ポイントカードお持ちですか?」という定型文。でもその瞬間、自分が“お客さん”として認識される。それは“社会とつながっている”感覚を取り戻す小さなスイッチになる。仕事では責任ばかり背負って、自分のことなんて誰も見ていないような気がするからこそ、他愛のない言葉のほうが沁みる。
日常会話に飢えるという現象
本当は、誰もがちょっとした会話を必要としているんだと思う。特に一人仕事の多い士業は。スマホやパソコンの中に閉じこもってばかりでは、心の柔らかい部分がどんどん固くなってしまう気がする。「寒くなりましたね」とか、「風邪ひいてませんか?」とか、そういう会話に飢えている自分がいる。
孤独と忙しさが同居する日々
忙しい時ほど、孤独になるのは皮肉な話だ。次々に舞い込む案件、期限、問い合わせ。周囲は「お忙しそうですね」と言うけれど、忙しさの中にあるのはむしろ孤独。誰も助けてくれない、という現実だけが重くのしかかる。気づけば、心の中で「誰か話しかけてくれ」と叫んでいる。
忙しいのに孤独、静かだけど追われている
音のない事務所。キーボードの音と、プリンターの機械音だけが響く空間で、書類と格闘している。電話が鳴れば焦り、鳴らなければ不安。静かであればあるほど、何かを忘れているような気がして落ち着かない。孤独とプレッシャーは、静かにじわじわと、確実に心を蝕んでいく。
電話が鳴らないことへの不安と安堵
電話が鳴らない日は、一瞬「今日は平和だ」と思う。でもその後すぐ、「依頼が減ったのか?信用が落ちたのか?」と不安になる。この仕事は、待つことが多い。だからこそ、沈黙に耐える力が必要になる。でも正直、まだその力を持ち合わせていない。音のない日が、こんなに怖いなんて、独立する前は思いもしなかった。
「誰にも求められていない感覚」との戦い
誰にも呼ばれず、頼られず、相談も来ない。そんな日が続くと、まるでこの世にいないかのような気分になる。士業というのは、誰かの「困った」を解決してこそ存在できる職業だ。だからこそ、「困ってる人が来ない=自分は不要」と感じてしまう。そんな時こそ、誰かとの雑談が、自分の存在を確かめる手段になるのかもしれない。
レンジでチンしただけの夕飯と、誰にも届かない独り言
今日の晩ごはん、誰のため?
仕事が終わって事務所の電気を落とし、駐車場で車に乗り込む。エンジンをかけながら、「さて、今日の晩飯はどうするか…」と毎日のように独りごちる。でも正直、誰のために食べるのかよく分からなくなってきた。腹は減るし、食べなきゃ体に悪い。だけど“食事”という行為そのものに意味を感じなくなる夜もある。あくせく働いた一日の締めくくりが、冷めたコンビニ弁当と缶ビール一本。これが俺の日常だ。
コンビニで手に取った“それ”に意味なんてない
帰り道、いつものコンビニに立ち寄る。どれを選んでも似たような味、似たようなパッケージ。結局、いつも手に取るのは決まったカツ丼弁当か、塩サバ弁当。自分で料理する元気はない。でも、「ちゃんとした食事をした」という証明が欲しくて、それなりに見える弁当を選ぶ。だけどレジを通すときにはすでに気持ちが冷めていて、「今日もか」とため息が漏れる。料理じゃない、生活の確認作業みたいなものだ。
誰かと食べるという当たり前が、遠い
昔は誰かと一緒に夕飯を囲むこともあった。学生時代の下宿、先輩との居酒屋、家族との団らん。けれど年齢を重ねるごとに、それはだんだんと“非日常”になっていった。今じゃ食卓に並ぶのは電子レンジで温めた弁当とテレビのリモコンだけ。会話もなく、笑い声もなく、ただ咀嚼音と箸が当たる音だけが響く夜。人と食べることがこんなにも特別なことだったなんて、ひとりになって初めて気づいた。
冷蔵庫が“空”なのは、心の状態そのままかもしれない
先日ふと、冷蔵庫の中を見たら、ペットボトルの水とチューブのわさびしかなかった。買い物に行く余裕もなければ、入れるべきものが思いつかない。栄養のバランスよりも、心のバランスが崩れているのかもしれない。空っぽの冷蔵庫を前にして、自分の生活の“空洞”を見せつけられたような気がした。満たすべきは胃袋だけではない。けれど、何を入れたら自分の心が満たされるのか、正直わからない夜もある。
一人分って、なんか割に合わない
一人分だけ作るって、やたらと手間がかかる。材料を買っても余るし、洗い物も出る。だったら弁当で済ませようと考えるのは、ごく自然な流れ。だけど、それを毎日繰り返しているうちに、だんだんと「ちゃんと生きてるのか?」という疑問が湧いてくる。手を抜くことは悪くない。でもそれが続くと、“自分を大事にできてない感”がじわじわと胸に迫ってくるのだ。
「もったいない」と「作る気がしない」の間で揺れる
スーパーで野菜を買っても、使い切れずに腐らせる。鶏肉も半分残って、次の日に使おうと思いながら忘れて賞味期限が切れる。「もったいない」と思う反面、「一人分だけのために作る気がしない」という気持ちの方が勝ってしまう。冷蔵庫の中身が腐るたび、自分の気力もどこかで腐っているような気がして、虚しさが増す。料理って、誰かのためだから頑張れるんだなと、最近よく思う。
洗い物まで含めて「自分だけ」って、地味につらい
作ったとしても、洗い物が待っている。一人でやる作業は、片づけまで全部自分で完結しなきゃならない。誰かと住んでいた頃は、「私やるよ」「いやいや俺やるから」と小さな会話があった。けれど今は、自分で食べて、自分で片付けて、誰にも感謝されることなく終わる。地味だし、誰にも見えない部分だけど、積み重ねるとそこには確かな“重み”がある。面倒くさいと感じる気持ちは、どこか心の疲れとつながっている。
実は、同じ弁当ばかり食べている理由
「またその弁当?」と事務員さんに言われたことがある。実際、週に3回は同じ弁当を買っている。理由は簡単。考えなくていいから。迷う時間すら面倒だし、味も知っているからハズレがない。何より、同じものを食べることで、ルーティンができてる気がして安心する。でも裏を返せば、それは生活に新しい刺激がない証拠でもある。安心と停滞は、紙一重なのだ。
「いただきます」を聞いてくれる誰かがいれば
食べるという行為は、ただの栄養補給じゃない。「いただきます」と口にする意味が、誰かと共有されることでようやく成立する気がする。声に出しても返事がない。だから最近は言わなくなった。でも、もし誰かが「どうぞ召し上がれ」なんて言ってくれたら、それだけで夕飯が少しだけ温かくなるのかもしれない。
事務員さんには言えない本音
うちの事務員さんは気が利く。たまに「お昼買っておきましょうか?」なんて聞いてくれる。でも、さすがに夕飯の話はできない。さみしいなんて言ったら、気を遣わせてしまうし、なんだか男として情けない気もする。だから黙ってる。でも内心、「たまには誰かと夕飯食べたいな」なんて思っている自分がいる。そんな自分を情けないと思う日もあるけれど、それもまた本音なんだろう。
誰かと囲んだ鍋が、ちょっとだけ恋しい
冬のある日、友人夫婦に誘われて鍋を囲んだ。野菜を切る音、鍋から立ちのぼる湯気、箸を伸ばす手が交差する風景。ああ、これが“食卓”だったなと思い出した。自分の家では見られない風景だ。あの一体感は、ひとりでは絶対に生まれない。ひとり鍋も悪くないけれど、誰かと食べる鍋には、味以上のあたたかさがある。
沈黙の食卓と、テレビの音量だけが大きくなる夜
静かな夜の食卓。テレビをつける。芸人の笑い声やBGMが部屋に流れる。けれど、笑う相手はいない。箸を動かしながら、どこか“この音”が虚しさをかき消してくれる気がして、つい音量を上げる。食事が終わる頃には、その音が騒がしく感じてミュートにする。この繰り返し。ほんの数分の沈黙に耐えられない自分が、情けなくてやるせない夜もある。
それでも、また明日も食べるから
どんなにむなしい夕飯でも、次の日にはまた腹が減る。生きるって、そういうことなんだと思う。だから食べる。レンジでチンでもいい、パックご飯でもいい。栄養だけじゃない、“なんとなくの希望”を添えて、また食べる。そんな毎日の中に、小さな救いがあればいい。それが誰かとの会話だったら、もっと嬉しい。
誰かと食べることを諦めないという選択
この先も、ずっと一人かもしれない。でも、だからといって「誰かと食べたい」という気持ちを押し殺す必要はないと思ってる。たまに友人と外食するだけでも違う。家で誰かを招いて食べることもできる。諦めなければ、孤独も少しだけやわらぐ。そう信じてる。
せめて自分に優しくしてやることから
最近、ほんの少しだけ自炊を始めた。簡単な味噌汁や目玉焼き。面倒だけど、「自分のために作った」っていう事実が、少しだけ自分を肯定してくれる。誰かに優しくされたい気持ちは、自分にも向けていい。むなしい夜に、小さな“自分へのご褒美”を与えてみることから始めてもいいと思う。
一人飯にも、小さな灯りをともす工夫を
無音の部屋で食べるのがしんどい日は、キャンドルをつけてみたり、好きな音楽を流してみることもある。ほんの些細な工夫だけど、食事が少しだけ特別な時間になる。それだけで、むなしさが少しやわらぐ。一人飯に意味を持たせるのは、自分自身なんだと思うようになった。小さな灯りが、心を照らしてくれるかもしれない。