忙しいのに、何も残らない──ただ過ぎていく毎日と向き合う

忙しいのに、何も残らない──ただ過ぎていく毎日と向き合う

気づけば“忙しいだけ”の毎日になっていた

最近、自分の生活を一言で表すとしたら「忙しいだけ」になる。朝から晩まで動いてはいるけれど、何かを成し遂げた実感があるかというと、まったくと言っていいほどない。疲れて帰宅し、コンビニ飯をつつきながらぼんやりテレビを眺める。そんな日が、週の大半を占めるようになった。司法書士という仕事柄、やることは尽きない。でも、それが心を満たすかというと別問題だ。気づけば、ただ日々に流されるように、過ぎていく時間を追いかけるだけになっていた。

朝はバタバタ、夜はぐったり、でも何も進んでない

出勤前の朝はいつも戦争だ。メールを確認し、依頼人への連絡事項を確認し、急な書類作成に追われる。朝ごはんは、食べないか、食べたとしてもトーストを口に突っ込むだけ。そこから一日が始まり、電話と応対と書類の処理で気づけば夕方になっている。そして夜には、もう何もしたくないほど消耗している。でも、その日何をしたか思い出しても、特に成果が思い浮かばない。やったことよりも、「終わらなかったこと」ばかりが脳内に残っている。

業務に追われているのか、自分を追い込んでいるのか

毎日忙しいのは事実だ。けれど、それは本当に“外からの業務量”なのか、それとも自分で自分を忙しくしているだけなのか。ふと立ち止まって考えると、前者だけでは説明がつかない。やらなくてもいいことに時間を使ったり、段取りをつけずに進めたり、無駄な確認を何度もしていたり。効率よく回そうと思えばできるはずなのに、どこかで“忙しさに身を委ねている”自分がいる気がする。そうすることで、考えずに済むからだ。

「何してたっけ?」と夕方に首をかしげる

特にやらかした覚えもないし、大きな成果もなかった日。そんな日は決まって夕方に「今日は何してたんだっけ」と独りごちてしまう。事務所にこもって机に向かっていたはずなのに、脳内に残る映像はほぼゼロ。せいぜい、お昼のカップ麺の味ぐらいだ。自分の時間を何かに費やしたはずなのに、心に何も残らないこの感覚が積もっていくと、やがて「生きてる意味あるのか?」という問いが顔を出しはじめる。

司法書士という職業の“終わりなき処理地獄”

司法書士の仕事は、華やかでもなければ、わかりやすい成果も少ない。地味な書類作業と確認作業、そして期限のある案件を淡々と処理していく毎日。手続きは完了しても、「ありがとう」と言われることすら稀だ。やりがいという言葉を思い出すたびに、「そんなもんあったか?」と自分に問い返すようになった。努力が蓄積されるというよりは、消耗されていく感覚のほうが圧倒的に強い。

書類は山積み、電話は鳴り続ける

どんなに頑張っても、今日片付けた案件の分だけ、明日新たな書類が届く。郵便受けに分厚い封筒が何通も届いているのを見ただけで、もう心が折れそうになる。電話も、折返しも、メールも途切れない。昼休みにトイレで座ってるときだけが“唯一の休息時間”になっている日すらある。かといって、誰かに助けてほしいとも思えない。自分で選んだ道だから、という呪いのような言葉が頭のどこかで繰り返される。

効率化しても、なぜか暇にならない矛盾

業務ソフトを導入したり、テンプレートを整備したりして、効率化はしているつもりだ。それでも暇にはならない。いや、むしろ効率化したぶん、空いた時間にさらに別の案件を詰め込んでしまう。結果、ますます“忙しさ”がループする。結局、自分が忙しさに依存してるのかもしれない。何もしない時間を“無駄”だと思い込んで、休むことすら罪悪感になっていたりする。

仕事に追われているようで、逃げている気もする

忙しさの中に身を置くと、深く考えなくて済む。それは一種の“逃げ”なのかもしれない。人生のこと、将来のこと、孤独のこと。そういう考えたくないテーマに目を向けずに済むからこそ、自分で自分を忙しくさせている。追われているふりをして、実は“逃げてる”のは自分自身。それに気づいた瞬間、ちょっとだけ怖くなった。

“忙しさ”に隠された空虚さと孤独

「忙しいですね」と言われるたびに、なぜか寂しさを感じる。それは、自分の存在を“忙しさ”でしか証明できなくなっているからかもしれない。確かに忙しい。けれど、その中に心があるかといえば疑問だ。ふとした瞬間に、「このまま10年経って、何が残るんだろう」と思ってしまう。忙しさの裏側にある空虚さが、じわじわと心を蝕んでいく。

誰にも相談できないまま、一人でこなす日々

一応、事務員はいる。でも、やっぱり相談できるような関係ではない。向こうにも気を使わせるだろうし、そもそも「弱音を吐く姿」を見せたくない。結果、どんなに苦しくても、黙って耐える。気づけば、話し相手はラジオのパーソナリティだけ。そんな生活を何年も続けていたら、人間らしい感情がどこかに置いてきぼりになっていた。

感情を置き去りにして働くクセがついていた

昔は、依頼人に感謝されたり、無事に登記が終わったときには、ちゃんと嬉しかった。でも、今では「はい、処理完了」としか思えなくなっている。それが悪いとも思わないが、喜びや達成感が薄れていくのは、自分が“心を使わなくなった”証拠かもしれない。感情を省略して、タスクだけを淡々と積み重ねていく働き方。それが当たり前になっていた。

「大丈夫です」が口癖になったあたりからおかしい

本当はしんどいのに、「大丈夫です」と言ってしまう。誰にも頼らず、自分ひとりで何とかしようとしてしまう。人に弱みを見せるのが苦手で、それをカッコ悪いと思ってしまう。この「大丈夫の鎧」を着ている限り、本音を話すことはできない。そして、それが積もり積もって、心の奥で腐っていく。たまにひとりになったとき、急に涙が出てくるのは、そのせいかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。