ひとりで背負う日常の重さ
司法書士として独立してからというもの、すべての判断や責任をひとりで抱えることが当たり前になってしまいました。朝から晩まで依頼人のこと、手続きのこと、書類のこと、そして事務員さんのサポートまで。こなしてはいますが、ふとした瞬間、「誰かと話せたら」と思うことが増えました。忙しさでまぎれている間は良いのですが、帰りの車の中で深いため息が出ることもあります。背負っているものの重さを分かち合える相手がいたら、きっと違うんだろうなと思うのです。
相談できる相手がいない日々
「誰かに聞いてほしいな」と思っても、なかなかその「誰か」がいない。たとえば登記のミスが起きたとき、事務的な修正で片付くことでも、精神的にはかなり堪えます。そんなとき、誰かに「あるある、気にしすぎだよ」と言ってもらえるだけで救われるのに…。結局、事務員さんに気を遣わせるのも申し訳なくて、何も言えず、自分の中で完結させる癖がついています。それがますます孤独感を深めていくのです。
事務所の壁が高く感じる瞬間
地方の事務所ということもあって、外との接点が少ないのは事実です。お客様とのやりとりも多くは電話か書類のやりとり。裁判所や法務局の窓口では形式的なやりとりだけで、雑談すらないことも。事務所の壁、というより、物理的な空間も含めて、外の世界と遮断されているような感覚になることがあります。内側でひとりごとを言って、誰にも返してもらえない。そんな虚しさに、何度も向き合ってきました。
「雑談」がないことの孤独
以前、研修で東京に出たとき、他の司法書士さんたちと雑談を交わした瞬間が妙に嬉しかったのを覚えています。「最近、どんな業務が多いですか?」なんてたわいもない話なのに、それが本当にありがたくて。日々の中で、ちょっとした会話、どうでもいいような一言の積み重ねが、どれだけ精神的な潤いになるか思い知りました。地方で、ひとりでやっていると、その雑談さえも贅沢になってしまうんですね。
同業者との距離感に悩む
同じ地域でやっている司法書士の方々もいるにはいるのですが、どうにも微妙な距離感があるんですよね。仕事上のライバルでもあり、仲間でもあるような…そんな複雑な立ち位置です。助け合えればいいとは思うけれど、いざとなるとこちらから声をかける勇気が出ない。気を遣いすぎてしまって、踏み込めない自分がいます。
横のつながりを作る難しさ
一度、思いきって地元の勉強会に参加してみたことがあります。でも、参加者の多くが顔見知り同士で固まっていて、ぽつんと浮いてしまったんです。話しかけるタイミングも掴めず、終わってから一人で居酒屋に入ったとき、「何しに行ったんだろう」と虚しさだけが残りました。横のつながりを作るには、こちらから動く勇気と、受け入れられる運の両方が必要なんだなと痛感しました。
ライバル意識が邪魔をすることも
心のどこかで「負けたくない」という気持ちがあるのかもしれません。自分よりも成功しているように見える同業者に対して素直に声をかけられない。逆に、こちらが苦しい状況を見せるのも恥ずかしい。そういう見栄や意地が、「仲間」という存在を遠ざけているんじゃないかと思います。情けないけれど、それが現実です。
「仲間」と呼べる関係の定義とは
そもそも「仲間」って、何なんでしょう。仕事を一緒にしている人? 愚痴を聞いてくれる人? それとも、ただ隣で黙って座ってくれるだけでも十分な人? 歳を重ねるにつれて、仲間に求めることが多くなってしまっている気がします。昔は「一緒にラーメン食べに行ける人」でも仲間だったのに。今は「何かあったら助けてくれる人じゃないと」と思ってしまっている。自分自身が仲間を作るハードルを上げてしまっているのかもしれません。
仕事仲間=心の仲間ではない
業務のやり取りがあるからといって、心を許せるわけではありません。形式的な連携はできても、「本音を話せるか」という点になるとまた別の話。ある弁護士さんとは月に数回、依頼のやり取りをしているのですが、話はすべて業務的。それ以上の関係にはならないし、なるべきでもないのかもしれません。だからこそ、「心の仲間」をどうやって見つければいいのか、わからなくなってきました。
仕事のつながりと感情のつながり
仕事を通じてつながる人間関係は、どうしても「条件付き」になりがちです。利益があるからつながる、必要だから連絡を取る。もちろんそれは社会人として普通のこと。でも、感情のつながりって、そういう損得とは別のところにあるものですよね。ちょっとした弱音を吐いても受け止めてくれる、そんな関係を築ける人は、今どき希少な存在かもしれません。
距離感を間違えると逆にしんどい
逆に、距離を詰めすぎると疲れてしまうこともあります。無理に仲良くしようとして、余計に気を遣うようになったり。以前、地元の税理士さんと仲良くなろうと飲みに行ったことがあったのですが、向こうが業務の話を延々と続けるタイプで、こちらの話は全然聞いてくれない。その帰り道、「やっぱり無理に距離を縮めるのは逆効果だな」と思いました。自分のペースで付き合える人が、本当の仲間なんだと感じました。
孤独を打ち明けることのハードル
孤独です、なんて簡単には言えません。言ったところでどうなるのか、自分でもよくわかっていないし、「そんなこと言う暇あるなら仕事しろ」と自分に言い返してしまう。でも、それでも、誰かに「しんどいんだよな」って言えるだけで、ちょっと楽になる気がします。だけどそれを言う勇気が、なかなか持てないんです。
「忙しいでしょ?」のひと言で終わる
ようやく本音を少し漏らしても、「忙しいでしょ? 無理しないでね」で話が終わってしまう。たしかに忙しい。でも、そうじゃなくて、「もっと話したい」のに。その先まで踏み込んでくれる人がいない。だから本音を言う意味もなくなっていく。結局また、自分の中に戻ってきてしまう。その繰り返しです。
深く話せる関係が築けない現実
人間関係を築くには時間がかかる。でも、忙しい毎日でその「時間」さえも持てないという現実。深く話せるような関係を作るには、お互いのことを知る余裕が必要です。でも、仕事に追われていると、その余裕がまったくない。仕事が落ち着いたときには、もう相手はいない。そんな寂しさが常について回っています。
それでも前を向くために
ここまで読んで「それでも続けてるんですね」と思った方、たぶん同じようにしんどい思いをしてるんだと思います。でもね、やっぱり続けるしかないんです。誰かに「仲間がいない」と言えなくても、自分の中で「それでも俺は俺の仕事をやってる」と思えるだけで、なんとか立っていられるんです。弱音も、強がりも、全部自分の一部です。
自分との対話を大切にする
仲間がいないなら、自分が自分の仲間になるしかない。そう思って最近は、仕事帰りにノートを広げて「今日どうだった?」と書くようにしています。たまには愚痴も書きます。「疲れた」「もう嫌だ」「なんで俺だけ」って。でも、それを書いて少し落ち着いたら、「じゃあ明日はどうしようか」と前を向ける。そんな小さな対話が、案外、支えになってくれるんですよね。
孤独を受け入れることで見える景色
孤独がつらいのは間違いない。でも、孤独だからこそ見える景色もあります。一人だから気づけるお客様の表情、一人だからこそ湧いてくる工夫のアイデア。誰かに頼らないからこそ育てられる「自分だけの判断力」。それはきっと、何物にも代えがたい強みなんだと思います。仲間がいない現実を嘆くのではなく、その中にある価値を、これからも探していこうと思います。