一人飲みが癖になってしまっていた

一人飲みが癖になってしまっていた

誰に迷惑をかけているわけでもないと思っていた

仕事が終わったあと、ふらっと立ち寄る居酒屋。カウンターに座って、静かに一杯やるのがいつの間にか習慣になっていた。「別に誰に迷惑をかけてるわけでもないし」と、自分に言い聞かせていたが、実はそれが少しずつ、自分を蝕んでいたんだと思う。気持ちが落ち着くから、疲れがとれる気がするから、そうやって理由をつけて通い続けるうちに、心がすり減っていることに気づかなくなっていた。飲んでる間はすべてがどうでもよくなって、だけど帰る頃には、また現実に引き戻される。その繰り返し。

気づけば週に何度もカウンターに座っていた

最初は月に1〜2回くらいだった。「今日は特別に」なんて理由をつけて寄っていた店も、気づけば週の半分は足を運ぶようになっていた。常連客の会話に混ざることもなく、スマホをいじりながら、ただ淡々と飲む。店の人にも顔を覚えられ、注文しなくても「いつもの」で通じるようになっていた。「こういうのって落ち着くよね」なんて、自分を納得させていたけど、ほんとうは寂しさを紛らわせていただけだったのかもしれない。

一人の時間を持て余した結果の「習慣」

自宅に帰ってもテレビをつける気にもなれず、かといって読書や趣味に打ち込む気力もない。そんな中で、手っ取り早く「気が紛れる」選択肢が一人飲みだった。仕事で頭がいっぱいの日々の中で、考えずにいられる時間が貴重に思えてしまう。だけど、それはあくまで「逃げ」だった。休んでいるつもりで、ただ現実から距離を取っていただけだったと、今なら思う。

仕事帰りの空虚感を埋めるルートがそこだった

依頼者と向き合い、書類を整え、提出期限に追われる毎日。ひと段落ついて事務所の電気を消したとき、ふと「俺は何のために頑張ってるんだろう」と思うことがある。家庭もなく、褒めてくれる人もいない。そんな空虚感を埋めるのが、あの一杯だった。ビールやハイボールの泡の向こうに、自分の居場所を見ていたのかもしれない。だけど、それは幻想でしかなかった。

「酒でも飲まなきゃやってられない」と言い訳していた

あるとき、昔の同級生に会って「最近飲んでばっかりじゃない?」と笑われた。そのときは「いやー、仕事が忙しくてさ。飲まなきゃやってられないんだよ」と軽く返したけど、内心は少し刺さった。たしかに、飲まなきゃやってられないと感じるくらい、自分の生活は余裕がなくなっていた。逃げるように飲み、誤魔化すように笑う。それが、だんだんと癖になっていたんだ。

疲れもストレスも、全てを正当化する魔法の言葉

「今日も大変だった」「あの依頼者、本当に大変だった」「役所の対応にうんざりした」――こうした一日の疲れやストレスを、飲むことでチャラにした気になっていた。「酒があるから耐えられる」「飲めば忘れられる」と思い込み、気づけば飲むこと自体が目的になっていた。正当化する理由がある限り、自分の中でそれは悪いことにはならなかった。

依頼者の重たい話の受け皿が自分にない

相続、離婚、借金、死――司法書士という仕事は、常に人の人生の節目と向き合う。相談者は心の中の重たい荷物を、こっちに預けていく。でも、こっちはその重さをどこに捨てればいいのか分からない。誰かに話せるわけでもなく、事務員に負担をかけるわけにもいかない。だから、一人で飲んで、一人で消化するしかなかった。それが自分の「発散方法」になってしまっていた。

ほんの少しのつもりが、気づけば「日常」に

最初は、ほんのご褒美のつもりだった。「今日は頑張ったから一杯だけ」とか「今週はきつかったから金曜だけ」とか、そんなふうにしていたのが、気づけば日常に組み込まれていた。飲まないと落ち着かない、飲むことでスイッチが切り替わる、そんな状態。これが果たして、健全なのかどうか、自分でも判断がつかなくなっていた。

ハイボール一杯がルーティンになっていた現実

家に帰る前にコンビニに寄って、350mlのハイボールを1本買う。それがないと風呂に入る気にもならないし、寝付きも悪くなる。飲まないと逆に不安になるというのは、依存というより「生活の一部」になってしまっていた証拠だろう。だけど、あるときふと、「これを続けてて本当に大丈夫なのか?」と思う瞬間が来た。

依存とは言わないが、無くなると落ち着かない

たとえばコンビニでいつもの銘柄が売り切れていた日、なんとなく心がざわついた。「今日は飲まないでおこうかな」と思っても、冷蔵庫を何度も開けてしまう。結局、他の種類を買いに別の店へ。そんな自分が嫌になって、「ああ、自分ってもう普通じゃないのかもしれないな」と思った。そのくらい、飲むことが生活の一部になっていた。

事務員にも言えず、孤独なルールだけが増えていく

うちの事務員さんは真面目で、気も利くし、本当に助かっている。だけどこの話は、なぜか言えなかった。なんとなく恥ずかしいし、「先生、大丈夫ですか?」と心配されるのも億劫だった。だから、黙って自分の中だけでルールを作って守っていた。「19時以降に飲む」「1日1缶まで」など、意味のないルールを。誰にも知られず、誰にも止められない、それが一番の問題だったのかもしれない。

飲みながら反省している自分に気づいた夜

ある晩、缶を片手に、なんとなくスマホのメモ帳を開いた。「もうちょっとちゃんとしよう」「このままじゃまずい」と書いてあった。それを書いたのが数週間前の自分で、驚いた。つまり、何度も同じことを思って、でも何も変わっていなかったのだ。飲んでいる自分に罪悪感があるくせに、やめられない。このループをどう断ち切ればいいのか、それすらも考えられなくなっていた。

「もう少しちゃんとしよう」と思っているのに繰り返す

朝になると、「昨日は飲まなくてもよかったな」と思う。でも、仕事が終わるとやっぱり買ってしまう。そんな繰り返し。自分に甘いのは分かってる。でも、他に楽しみもない。旅行にも行かない、趣味もない、恋愛もない。じゃあ、どうやって「ちゃんとする」のかも分からない。だから結局、また飲んでしまう。

自己嫌悪とちょっとした開き直りのループ

「しょうがないよな、俺だって頑張ってるんだし」そう言って、自分を慰める。でも心のどこかでは、「このままじゃダメだ」とも思っている。その葛藤に疲れて、また酒に逃げる。そしてまた後悔する。そんなループを何度も繰り返していた。

一人飲みの先にあるものは何だったのか

誰にも邪魔されず、誰にも気を遣わず、一人で飲む時間。それはたしかに癒しだった。でも、それは自分を癒しているようで、実は鈍らせていたようにも思う。問題を直視せず、ただやり過ごすだけの手段。そんなふうに自分の人生が、じわじわと麻痺していくのを感じた。

仲間も恋人もいない生活のすき間

「誰かと話したい」「一緒に笑いたい」そんな気持ちは、いつもどこかにある。でも、それを求めて動くほどの元気はない。結果、一人飲みでそのすき間を埋める。安くて、手軽で、失敗しない方法。でもそれでは、何も満たされなかった。

癖になるほどの「安心感」と「危うさ」

一人飲みは気楽で、自分のペースで楽しめる。だからこそ、癖になりやすい。でも、それにどっぷり浸かってしまうと、社会との接点も、人との関係も薄れていく。その危うさに、もっと早く気づくべきだった。癖になってしまったものを手放すのは難しい。でも、それに気づいた今が、もしかしたら最初の一歩なのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

ミスが許されないって知ってたけどさ

ミスが許されないって知ってたけどさ

「ミスが許されない」って言葉の重み

司法書士の仕事をしていれば、「ミスが許されない」なんてことは頭ではわかっているつもりだった。でも、実際に現場でそれを突きつけられると、想像していた以上のプレッシャーを感じる。書類の一字一句、日付の一日違い、数字の一桁のミス。そういった些細なことが、依頼人の信頼を裏切り、自分の信用を損なう。たった一つのミスで何年も積み重ねてきた信頼が音を立てて崩れていく。このプレッシャーと共に生きることが、司法書士という仕事の現実だ。

肩にのしかかるプレッシャー

誰にも見えない荷物を毎日背負っているような感覚。朝起きた瞬間から、頭の中には今日やるべき書類、間違えてはいけない登記、期限が迫った案件のことばかりが浮かぶ。プレッシャーを感じていない司法書士なんて、たぶんいないと思う。事務所の電話が鳴るたびに、一瞬心臓が止まりそうになるのは、何かミスがあったんじゃないかって不安になるからだ。

常に「完璧」であれという無言の圧

「司法書士なら当然でしょう」と言われたことがある。言った方は何気ない一言だったかもしれないけれど、胸にグサッと刺さった。期待されることはありがたい。でもその期待が「常に間違えるな」「100点であれ」と無言で迫ってくるような感覚になると、自分を責める材料にしかならない。完璧でなければいけない、という幻想に縛られ続けている。

誰も言わないけれど、みんな期待している

依頼人は言わないけれど、「この人なら絶対に大丈夫」と思っている。それがわかるだけに、こちらとしては余計に気を張る。安心させたいけど、完璧を演じ続けるのもまたしんどい。人間なんだからミスもする。だけど、それが許されない世界にいる以上、そんな言い訳すらできない。自分にだけは嘘をつけない。

一つの見落としが全てを壊す

以前、登記簿の地番を一つ間違えたことがある。幸い気づいたのが早かったから補正で済んだけれど、もしそのまま提出していたらと思うと、背筋が凍った。たった一つの見落としが、相手の人生や財産を左右する。そんな責任を日常的に背負っているというのは、想像以上に心をすり減らすものだ。

実際に起きた“許されなかった”ミス

「こんなことくらいで?」と思うようなミスでも、司法書士の世界では致命傷になりかねない。法律というのは、曖昧さを許さない世界だ。自分が実際に経験した失敗談は、今でもトラウマのように頭の中に残っている。

登記の数字一桁違いで大騒ぎ

ある日、固定資産評価証明書の地番と登記申請書の数字が一桁違っていた。気づいたのは法務局からの補正通知が届いた時。お客様は「大したことじゃないですよ」と言ってくれたけれど、その言葉が余計に苦しかった。「大したことじゃない」と思ってもらえるようにするのがこちらの仕事なのに、その信頼を裏切ってしまった気がして、しばらく夜眠れなかった。

法務局からの電話は心臓に悪い

法務局からの電話って、だいたいろくなことがない。番号を見ただけで「やっちまったか?」と身構える。内容が些細な補正だったとしても、電話一本で1日分の気力が吹っ飛ぶ。何度経験しても慣れない。

郵送の遅れが引き起こす信頼崩壊

以前、登記識別情報の通知が郵送の手違いで遅れて届いたことがあった。実際には自分の責任ではなかったけれど、結果的に「司法書士がしっかりしていない」という印象を与えてしまった。仕事というのは、結果が全てで、プロセスの事情はあまり関係ない。だからこそ「ミスが許されない」って本当にその通りだと痛感した。

ミスできない日常に感じる孤独

ミスが許されない日々の中で、一番きついのは「孤独」かもしれない。弱音を吐けない、愚痴を言う相手がいない。そんな日常が続くと、だんだんと心の中に澱が溜まっていく。

誰にも弱音を吐けない環境

「先生なら安心です」と言われるたびに、笑顔で応える。でも心の中では、「俺だって不安なんだよ」と叫びたくなる。責任のある立場にいると、弱音を吐けない空気がある。相談相手がいないわけじゃないけど、「それぐらい乗り越えなよ」と言われるのがオチだとわかっているから、結局自分の中に飲み込んでしまう。

事務員さんの前では「しっかりした先生」でいなきゃいけない

うちにはひとり、真面目な事務員さんがいる。彼女に頼られているのもわかっているし、いい加減な姿は見せられない。だからこそ、ミスをした時も、落ち込んでいる姿を見せずに、平然を装う。そんな日々が続くと、どこかで心がついてこなくなる。

夜の事務所でひとり反省会

夕方、事務員さんが帰ったあと。静まり返った事務所で、自分の机に座って、今日のやらかしを振り返る。反省だけならまだしも、自分を責める時間が延々と続くこともある。ミスの重さは、日が暮れてからの方がズシンと響く。

それでも続ける理由ってなんだろう

こんなに大変で、精神的にも疲れるのに、なぜ続けているんだろうと自問することがある。でも、ちゃんと理由はある。小さくても嬉しいこと、救われる瞬間があるからだ。

お客さんの「ありがとう」が救いになる瞬間

先日、相続登記を終えたお客様が、わざわざ手書きの手紙をくれた。「先生のおかげで、気持ちの整理がつきました」と書かれていて、不覚にも涙が出た。報われる瞬間って、本当に些細だけど、だからこそ心に残る。

小さな成功が明日への希望になる

無事に登記が完了して、予定通りすべてが進んだときの安心感。その積み重ねが、自信になっていく。「ああ、ちゃんとやれてるんだ」と思えることで、また明日も頑張れる。それだけで、もう少し続けてみようと思える。

同じように悩んでいるあなたへ

もし、この記事を読んでいるあなたが同じような立場なら、一緒に愚痴ろう。完璧じゃなくていい。だけど、前を向こう。そんな気持ちで、今日も仕事してる。

ミスを恐れる気持ちを共有したい

あなたも「ミスが許されない」って言葉に押し潰されそうになったことがあるかもしれない。その気持ち、すごくわかる。誰かに責められる前に、自分が自分を責めてしまうんだよね。でも、それって本当は優しさの裏返しなんだと思う。

それでも司法書士として生きていく覚悟

苦しい日もあるけれど、それでもこの仕事に誇りを持っている。誰かの役に立てる、誰かの節目に関われる。それが司法書士の仕事の魅力だと思う。だから今日も書類とにらめっこしてる。ミスを恐れながらも、前を向いて。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。