やり直し続きの一日、それだけで心が削れる
司法書士の仕事というのは、一見すると淡々と書類を整えて判子を押すだけのように思われがちだが、実際は「やり直し」との戦いだ。登記の細かな形式、提出期限、補正、修正、再提出——それらが一日に何度もやってくる。たとえ9割うまくいっていても、残りの1割の「やり直し」によって、その日の自信はガタガタに崩れる。正直に言えば、一件一件が小さな地雷のようで、「今日もまた何か起こるんじゃないか」と朝から不安になることもある。
最初から間違っていたわけじゃないのに
やり直しというのは、たいてい「致命的なミス」ではない。たとえば登記申請の添付書類の順番が違うとか、代表者の住所にマンション名が入っていなかったとか。最初は「そんなことで?」と思う。でもその「そんなことで」が積もりに積もって、自分の判断力に疑問を感じはじめてしまうのだ。おかしいのは制度なのか、自分なのか。いや、やっぱり自分か……そんな思考のループにハマる日が増えた。
「確認不足でしたね」と言われるたびに
補正が来ると、法務局の担当者から「もう一度確認しておいてくださいね」と軽く言われる。あれが地味に堪える。こっちは何度も確認したつもりでも、どこかで見落としていたんだろう。そう思えば思うほど、自分の注意力のなさにイライラする。「確認不足」と言われるたび、まるで性格そのものを否定されたような気分になる。紙のミスなのに、人格が責められているような、あの感じ。
チェックリストの限界と、ヒューマンエラー
自衛手段としてチェックリストも使っているし、事務員にもダブルチェックをお願いしている。でも、人間がやる以上、100%の精度なんて無理だ。どんなに丁寧に確認しても、疲れているときや気が散っているときは見逃す。結局、最後の最後は自分の目と判断力だけが頼り。でもその自信が、やり直しの多さにどんどん削られていく。まるで刃こぼれしたナイフのように。
「またか…」が口癖になる日常
気づけば、電話のベルが鳴るたびに「また何かあったか…」と口に出してしまう。そういう日に限って、思い出したように補正通知が来る。予定していた仕事が崩れ、再対応が発生し、他の案件にも影響が出る。たかが一件、されど一件。あの小さな修正一つが、一日の流れを大きく狂わせる。やり直しの重みというのは、時間だけじゃなく、自信や集中力までも奪っていく。
やり直しが多い日は、自己肯定感がゼロに近づく
1日の終わり、机に向かいながら「今日も何も進まなかったな」と思ってしまう自分がいる。実際にはいくつもの案件が動いているし、仕事自体が完全に止まったわけではない。それでも、あの「やり直し」のダメージが心に残っていて、達成感を感じる余裕がなくなっている。何かを成し遂げたという実感がなく、ただ疲労だけが残る。
事務員にも気を使って謝る、それもまた疲れる
やり直しが発生すると、つい事務員さんにも「ごめん、ここ間違ってた」と言ってしまう。相手が悪いわけじゃなく、自分の確認不足や判断ミスなのに。でも、何度も同じようなことで指摘していると、こちらも申し訳なくなってくるし、相手も気まずそうな顔をする。「私がもっと早く気づけばよかったですね」なんて言われた日には、申し訳なさと自己嫌悪で一気にテンションが下がる。
修正指示がくるたび、自分の存在意義が揺らぐ
書類の訂正依頼や補正連絡が来ると、まるで自分が否定されたような感覚になる。特に、立て続けに何件も続くと、もはや自分の存在意義ってなんだっけ?とすら思ってしまう。もちろん仕事だから当然のことなのに、心がそれに耐えられないときがある。「またか」と思っているうちに、「やっぱり自分はダメなんだ」と変換されてしまう。その瞬間、心がカチッと音を立てて折れてしまうような感じになる。
誰かに怒られたわけじゃないのに、勝手に落ち込む
理不尽に怒鳴られたわけでもない。冷たく突き放されたわけでもない。ただ淡々と「訂正してください」と言われただけ。なのに、その一言が深く突き刺さる。誰にも責められていないのに、自分で自分を責めている。これが一番しんどい。外からの攻撃じゃなく、内側からじわじわ心をむしばむ感覚。静かな毒みたいなもので、知らないうちに精神が弱っていく。
自分で自分を責める習慣のこわさ
気づけば、毎日なにかしら自分にダメ出ししている。「これじゃダメだったな」「もっと丁寧にできたはず」「ああ、また同じミスだ」——こうやって毎日、自分の首を絞めているようなものだ。完璧主義というより、自罰的になっているだけなのかもしれない。責任感があると言えば聞こえはいいが、それが過剰になると、単なる自己否定になる。そこに気づくのが遅かった。
「この程度のことで…」が一番心に刺さる
一番つらいのは、第三者から軽く「この程度で凹むなんて」と言われることだ。自分の中では限界ギリギリなのに、それを分かってもらえない。小さなことだからこそ、積もるときは一気にくる。「この程度」で心が折れる人間だと気づいてからは、ますます口数が減った。弱音も吐きにくくなった。だからこのコラムで、少しだけ愚痴らせてほしい。
完璧を求める人ほど心が折れやすいのかもしれない
真面目な人ほど、やり直しのダメージを引きずる。それはきっと、自分の中で「こうあるべき」という理想が高いからだ。完璧な仕事をしたい。無駄なく、間違いなく、正確に。でも現実は違う。制度も変わるし、依頼人の事情もある。全部が計画どおりになんていかない。それでも「完璧」を手放せないから、自分で自分を追い込んでしまう。
小さな修正が積もることで起きる自己否定
書類一枚の修正でも、1日に何度も繰り返されると、自分の存在価値にまで影響してくる。「またか」「なんでこうなるんだろう」「自分って本当に向いてないのかも」——そう思いながらキーボードを叩く手が止まる。自分を否定する材料を、毎日のやり直しの中から拾い集めてしまうのは、本当に疲れる。誰も気づいてくれないだけに、なおさら辛い。
理想が高いのは、悪いことなのか?
理想があるからこそ、成長できる。そう信じてきた。でも最近、それが自分の首を絞めている気がする。理想通りにいかないと、自分を責める。理想が高すぎて、現実に失望する。もしかすると、もう少しだけ「いい加減」でもよかったのかもしれない。だけどそれができないから、こうして悩んでいる。バランスの取り方が、いつまでも難しい。