帰ってきたはずなのに、どこか落ち着かない
日中、外回りでバタバタと動き回ったあと、夕方になって事務所に戻る。その瞬間、ドアを開けた先に広がるのは、思わず足を止めたくなるほどの静寂。確かに、自分の城に戻ってきたはずなのに、どうにも空気が冷たく感じる。エアコンの温度の問題ではない。空間に「誰もいない」ことが、これほどまでに心細いものなのかと、毎度思い知らされる。誰にも邪魔されずに作業ができる環境のはずが、実は自分にとっての「孤独の象徴」になってしまっている。
玄関を開けた瞬間に押し寄せる無音のプレッシャー
「ただいま」と言う相手がいない空間。鍵を開け、ドアを押し開けたその一歩目で、空気の重さが変わるのがわかる。照明をつけた瞬間に立ち現れる静かなオフィス。外の喧騒から解放されたはずなのに、心が休まらない。むしろ、街中にいた方がまだ人の温度を感じていたような気さえする。事務所に戻るたび、「この場所、誰のためにあるんだろう」と、ふと我に返ってしまう。
機械の音も人の声もない世界
パソコンのファン音、コピー機の起動音、誰かのキーボードを叩く音。普段は気にも留めないような雑音が、今では愛おしい。人の声がしない空間というのは、これほどまでに冷たく、無機質なものだったのかと感じる。以前、事務員さんが夏風邪で1週間休んだとき、毎日が地獄のようだった。仕事は回るが、心がまったく動かない。
電話の留守電だけが生きている証
事務所に戻ってまず確認するのが、留守電。ランプが点滅していれば少しほっとする。「あぁ、誰かからのメッセージがある」と。そこに人の存在が感じられる。ただし、内容が催促やクレームだと逆に疲労が倍増するのが現実。喜んでいいのか落ち込むべきなのか、よくわからないまま、機械の音声に淡々と応対する。これが今の自分の「日常」だ。
静寂が語りかけてくる「本当にこれでいいのか?」
静かな事務所に腰を下ろし、ふとした瞬間に湧いてくるのが、「俺の人生、このままでいいんだろうか?」という問い。誰にも答えは求めていない。けれど、毎日毎日、同じ机に向かって同じ書類を見つめながら、無音の中でふと胸に刺さるこの問いかけが、なぜか逃れられない。仕事は好きだ。だけど、満たされているかというと、違う。そんな微妙な感情が、静寂の中で膨らんでいく。
繁忙期が過ぎ去ったあとの虚無感
繁忙期には「もう休ませてくれ」と叫びたくなるほど忙しくて、体力的には限界だった。でも、不思議なことに、忙しさが去ったあとの静けさには、妙な怖さがある。仕事が片付いてホッとするはずなのに、心は空っぽ。やることがないわけではないのに、机の前に座っても手が止まる。どこかで「燃え尽きた」のか、「気が抜けた」のか。いずれにしても、静けさが自分の内面を映し出してくる。
働いているのに、何かが欠けている感覚
忙しく動いているはずなのに、「何かが足りない」と思うことがある。それは達成感だったり、仲間意識だったり、誰かに必要とされているという実感かもしれない。数字を追いかける仕事ではないから、終わりも評価も曖昧だ。だからこそ、ふとした瞬間に「これで良かったんだろうか」と不安になる。その不安は、静かな空間で一層強くなる。
ひと仕事終えたはずなのに、心は重い
「今日もなんとか終わった」と思っても、心が晴れることは少ない。達成感よりも、疲労感のほうが上回っている。誰かに「お疲れ様」と言ってもらえれば、少しは違うのかもしれない。でも、独りで帰ってきた事務所には、そういう言葉はない。ただ照明がつくだけ。自分のための拍手も祝福もない。それが、思った以上に堪える。
誰かの気配が欲しいときに限って誰もいない
人付き合いが得意なわけでもないし、にぎやかなのが好きな性格でもない。でも、まったくの無人空間というのは、やっぱりこたえる。特に、気持ちが沈んでいるときに限って、事務所は無音になる。事務員さんが早退した日なんか、帰る気すら起きないこともある。人がいることで、こんなにも「帰る場所」になるのかと痛感する。
事務員さんの不在が想像以上に堪える
事務員さんがいない日は、本当に寂しい。仕事の面だけでなく、精神的な支えになっていたのだと改めて気づく。たとえ会話が少なくても、誰かがいてくれるだけで安心できる。コピー用紙が切れていたら補充してくれて、ちょっとした雑談を挟んでくれる。そういう何気ないやりとりが、自分にとっては「日常」の大きな一部だった。
気配があることの安心感
人の気配というのは不思議なもので、姿が見えなくても感じるだけで安心できる。事務員さんが別室で電話対応しているだけでも、「ああ、誰かいるな」と思えて落ち着く。静寂に支配された空間では、逆に自分の呼吸音すらうるさく感じる。無意識に「誰か」とのつながりを求めている証なのだろう。
「お疲れ様です」の一言がどれだけ救いか
毎日の終わりに「お疲れ様でした」と声をかけてもらえるだけで、不思議と肩の力が抜ける。たとえルーチンの一言でも、それがあるかないかで一日の印象はまったく違う。たった数秒のやりとりが、仕事の疲れをやわらげ、明日への気力をくれるのだ。独りきりの事務所では、その言葉がない。自分で自分をねぎらうのも限界がある。
この静寂は、ひょっとして自分が選んだ結果?
ふと考える。「この状況って、自分が望んで選んだんじゃなかったっけ?」独立して自由な働き方を手に入れた。その代償として、同僚も仲間もいなくなった。好きなことをやれるのは確かだけど、喜びや悩みを共有する相手はいない。静寂は、自由と引き換えに得た「結果」かもしれない。そう思うと、少しだけ納得してしまう自分もいる。
独立開業の喜びと引き換えに失ったもの
開業当初は、「これからは自分の好きなようにやれる」と胸を躍らせていた。実際、縛られない働き方ができるのはありがたい。でも、その一方で、孤独と常に向き合わなくてはいけない現実もある。会社勤めの頃にあった、他愛もない雑談や休憩時間のコーヒーが、こんなにも貴重なものだったなんて、独立してから気づいた。
「自由」には責任が、「孤独」には静寂が
独立して自由を得るというのは、確かに魅力的だ。しかしそれは、すべての責任を自分で背負うという意味でもある。誰も守ってくれないし、誰も気づいてくれない。その中でやっていくのは、思った以上にしんどい。そして静寂は、その現実を突きつけてくる。「お前は独りでやっているんだぞ」と。
どうしてこんなに無音が心に刺さるのか
音がないことそのものが怖いわけじゃない。無音が「自分の感情」を強調するからこそ、刺さるのだ。人の声や機械音がないことで、自分の思考がどんどんクリアに浮かび上がる。それがつらい。余計なことまで考えてしまう。仕事の悩み、人生の選択、人間関係の空白。そのすべてを、静寂が浮かび上がらせる。
人との関わりが減ると、雑音すら懐かしくなる
昔は「静かな職場が理想」と思っていたけれど、今では違う。誰かのくしゃみや独り言、ペンを落とす音でさえ、「ああ、生きてるんだな」と思えるようになった。静かすぎる空間は、自分の存在すら疑いたくなる。だからこそ、ちょっとした雑音が愛おしく思えるようになってきた。
笑い声やキーボードの音が恋しい
近くのデスクから聞こえるタイピングの音や、誰かの笑い声。そんな当たり前だった音たちが、いまは遠い記憶になっている。音があることで空間が生きる。音がないと、自分も機械の一部のようになってしまう。司法書士という職業は黙々とこなす時間も多いけれど、それでも人間らしい「音」が、やっぱり欲しいと思うのだ。