静かな夜、理由もなく涙が出るときがある

静かな夜、理由もなく涙が出るときがある

ひとりの夜、ふと押し寄せる涙

忙しい日々の終わり、家に帰ってご飯を食べ、テレビもつけずにただ静かな夜を迎える。そんなとき、不意に涙がこぼれてくることがある。何か特別に悲しいことがあったわけでもない。誰かに傷つけられたわけでもない。ただ、胸の奥に詰まったものが溢れ出るように、じんわりと涙が流れてくる。私は司法書士として日々多くの人の人生に関わっているが、自分自身の感情を置き去りにしてきた気もする。夜という静寂の中で、ふとそれに気づかされる瞬間がある。

静けさが心をむき出しにする

昼間は電話が鳴り、来客対応をし、書類と格闘し続けている。音と動きにまみれて、自分の内面に耳を傾ける余裕などない。しかし夜になると、その喧騒がピタリと止み、部屋の静けさが逆に心の声を大きく響かせる。私の中に積もっていたものが、まるで声を持ったようにざわめき出す。そんな夜は、強がる必要も、仕事人でいる必要もない。泣いても誰にも責められない空間が、夜にはある。

昼間は気づかない感情が、夜に浮かぶ

私の場合、日中は感情をシャットアウトして仕事をしている。「感情的になると効率が下がる」という職業柄のクセだ。しかし、無視していた感情たちは夜になってひょっこり顔を出す。「あの依頼者の一言、意外と傷ついてたな」とか、「本当はもっと感謝されたかった」とか。小さなわだかまりが夜になると増幅して、涙に変わってしまうのだ。

無音の部屋が気持ちを増幅させる

テレビもラジオも消した部屋は、まるで自分の内面を投影するキャンバスのようになる。音がないことが、逆に思考の声をクリアにしてしまう。私は一人暮らしだから、話し相手もいない。そんな中で浮かび上がってくるのは、過去の後悔や、現在の孤独、将来への不安。静寂がすべてを引き出して、気づいたら涙が頬をつたっていることがある。

仕事の疲れは、感情の蓋をゆるめる

一日中、神経を張り詰めて仕事をしていると、身体よりも先に心が疲弊していく。私はそれに気づかないふりをして、「まだやれる」「これがプロだ」と自分に言い聞かせてきた。でも本当は、知らないうちに感情の蓋が緩んでしまっているのだ。夜になると、その蓋の隙間からこぼれたものが涙となって現れる。

司法書士という仕事の「見えない重圧」

司法書士の仕事は、表面上は書類を扱う業務が多いが、その裏には人の人生の節目やトラブルがある。登記ミスひとつで損害が出ることもあり、いつもプレッシャーはつきまとう。誰も気づかない小さな判断ミスが後々大きなトラブルになる。だから常に緊張しているし、ミスをしないよう神経を尖らせている。その緊張が夜に緩んだとき、涙が出るのは自然なことかもしれない。

人の人生に関わる責任と孤独

相談者からは「頼りにしてます」と言われることもある。でも、それが逆にプレッシャーになることもある。私は人の人生に関わる決断を求められる立場で、軽率な対応はできない。それゆえに孤独にもなる。信頼されるほど、背負うものは重くなる。誰かと分かち合える話ではないから、夜にひとりで涙することでしか、解放できないのだ。

「泣く」ことへの罪悪感を手放していい

泣いてしまう夜は、なんとなく自分が弱くなった気がして恥ずかしくなる。でも、それは間違いだと最近は思うようになった。むしろ感情を流せることは、人としてのバランスを保つために大事なことだ。司法書士であっても、人間であることを忘れてはいけない。泣くことでしかリセットできないときもあるのだ。

涙は弱さじゃなく、メンテナンス

私は、涙は心の洗浄液だと思っている。人に見せないだけで、たくさんのことを我慢している日常。溜まった澱(おり)を排出しなければ、どこかで詰まってしまう。私にとって泣くことは、そういうメンテナンスだ。感情を整理し直し、明日また机に向かうために必要な時間なのだ。

感情の排水口としての涙

たとえるなら、排水溝の掃除みたいなものだ。普段は流れているように見えても、汚れは知らぬ間に溜まっている。それを定期的に掃除しないと詰まる。涙はその掃除の役割を果たしている気がする。流れたあとは、少しだけすっきりする。泣いたからこそ、「またやるか」と思えるのだ。

「がんばり屋」の証拠としての涙

弱いから泣くんじゃない。むしろ、がんばりすぎて泣いてしまうのだと思う。誰にも甘えず、自分で何とかしようとして、結局夜になって糸が切れる。そんな涙は、あなたががんばっている証拠でもある。私はそう思いたい。そうでも思わないと、やっていられない夜もある。

孤独は、時に正体のない重さになる

誰かと一緒にいたいと思う気持ちはある。でも現実には、帰りを待つ人もいない。話を聞いてくれる相手もいない。そんなとき、孤独は形のない重石となって胸の上に乗ってくる。その重さが、涙になって流れるのだろう。何も悪いことをしていないのに、罰を受けているような夜もある。

誰かと話したいのに誰もいない

「今日はきつかったな」と誰かにこぼせたら、それだけで楽になることがある。でも、私はその「誰か」がいない。SNSに書くのも違うし、職員に話せる内容でもない。ひとりで抱えるには重すぎる気持ちも、夜になるとすぐそこにいる。電話帳の連絡先を眺めても、結局誰にもかけられずに終わる。

モテないからこその静かな夜

自虐でもなく事実として、私はモテない。女性と無縁な生活をしている。だからこそ夜が静かで、感情の行き場がないまま胸にたまっていく。たまに誰かと過ごしていたら、こんな夜も変わっていたのかもしれない。そんなことを考えては、ため息と一緒に涙を流す。誰もいない部屋で。

涙を無理に止めない夜の過ごし方

泣きたくなったら、泣けばいい。私は今ではそう思っている。無理に平気なふりをしても、あとで余計につらくなるだけだ。涙を味方にすることで、感情と折り合いがつけられるようになる。司法書士としての自分も、ひとりの人間としての自分も、両方大事にしていきたい。

自分の感情と付き合う習慣を持つ

感情を押し殺すだけでは、結局どこかで破綻する。だから私は、夜に泣くことを前向きに受け入れるようになった。お風呂にゆっくり浸かったり、灯りを暗くして音楽をかけたり。そんな小さな習慣が、心をほぐしてくれる。自分の感情を否定せず、受け止める準備をすることで、次の日の朝が少しだけ楽になる。

湯船に浸かる、灯りを落とす、ひとりで泣く

ただぼーっと湯船に浸かって目を閉じる。湯気に包まれながら、あえて何も考えない時間を作る。灯りを落として、泣きたいだけ泣く。それだけでも十分だ。何も解決しなくても、気持ちがひと呼吸つければそれでいい。私はその積み重ねで、どうにかやってこれた。

日記に書く、それだけで楽になることも

最近は紙のノートに少しずつ日記を書くようにしている。誰にも見せないから、言葉も素直になる。感情を言語化することで、自分の中で整理されていく感覚がある。涙の理由がわからないときでも、書いているうちに少しずつ気づくことがある。人に言えないことは、紙にぶつければいい。

司法書士が「泣ける」タイミングは、意外と貴重

いつも心に鎧をまとっているからこそ、その鎧が緩んだ瞬間は大切にしたい。泣ける夜というのは、むしろ心が健全に動いている証かもしれない。私はそう考えるようになった。忙しさの中で、泣くことすら忘れてしまったら、きっともっと辛くなる。だから、涙を「癒しの合図」として受け止めている。

泣けるうちは、まだ大丈夫だ

涙が出るというのは、まだ感情が生きている証拠だと思う。もしも何も感じなくなってしまったら、それはもっと危険だ。だから私は、「泣けてよかった」と思うようにしている。感情が動いているかぎり、まだ自分は自分としてのバランスを保っていると信じている。

感情を押し殺しすぎたら、壊れる

私の知っている先輩司法書士は、ずっと感情を表に出さない人だった。淡々と仕事をこなしていたが、ある日突然倒れてしまった。「何も感じないようにしていた」と、ぽつりと言っていたのが印象的だった。感情を押し殺しすぎると、心だけでなく体まで壊れるのだと実感した。

あなたの涙に、価値がある

泣くことは、恥ずかしいことでも、みっともないことでもない。むしろ、ちゃんと自分の気持ちと向き合っている証だ。私は今でも、静かな夜に涙を流すことがある。でも、それを否定せず受け止めるようになった。あなたの涙にも、きっと意味がある。そしてその涙が、次の日の自分を支えることもある。

泣いた夜の分だけ、明日は強くなれるかもしれない

泣いたあとに訪れる朝は、どこか空気が澄んでいる。気持ちが軽くなったような、視界が広くなったような、そんな感覚がある。昨日の涙が、今日を生きる力に変わっているのかもしれない。私はそう信じて、また今日も机に向かう。

経験を重ねると、泣く理由も深くなる

若い頃は、理不尽なことがあると怒って泣いた。でも歳を重ねると、泣く理由も変わってくる。感謝の涙、悔しさの涙、自分の不甲斐なさに対する涙。どれも、今の自分が積み上げてきたものの証だ。だから、泣けるということは、人生をちゃんと生きてきた証でもあると思いたい。

それでも仕事は、またやってくる

どれだけ泣いた夜でも、朝はまたやってくる。仕事も待っている。司法書士という職業にゴールはないし、区切りもない。だからこそ、自分で自分を労わることが必要だ。静かな夜に泣いたっていい。むしろ泣ける夜を、大切にしたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。