テレビの笑い声が虚しく響いた

テレビの笑い声が虚しく響いた

ひとり暮らしの夜、テレビだけが騒がしい

仕事から帰ってドアを開けた瞬間、誰もいない部屋に電気をつける。無音が怖くて、無意識のうちにテレビのリモコンに手が伸びる。バラエティ番組の派手な笑い声が部屋に響き渡るけれど、その声がなんだかやけに浮いて聞こえる。笑い声が騒がしいほど、自分の孤独が際立つ。テレビが楽しそうであればあるほど、自分の中の空白が浮き彫りになる夜。別に泣きたいわけじゃない。ただ、何も感じたくないだけなのかもしれない。

仕事帰り、部屋に灯るのは画面の光だけ

誰かが待っているわけでもなく、温かい夕食の匂いがするわけでもない。キッチンの照明をつける気にもなれず、真っ先にテレビをつけて無理やり生活感を演出する。画面の中の賑やかな食卓と、自分のコンビニ弁当の差が目にしみる。ふと「なんでこんな生活してるんだろう」と思う瞬間があるけど、思ったところで現実は変わらない。司法書士の仕事は、人の人生に関わる責任ある仕事なのに、自分の人生はどこか止まったままだ。

「ただいま」と言う相手がいない現実

ふと口に出してみた「ただいま」。それが空気に溶けて消えていく。昔、実家で母が「おかえり」と返してくれた日々を思い出す。今では、その「おかえり」すらテレビの中の世界でしか聞けない。事務員の女性に挨拶されることはあっても、それは業務の一環。誰かの私生活に入り込むほどの関係でもないし、こっちも求めていない。けれど、本当に求めていないのか、夜になるとわからなくなる。

人恋しさとテレビの音量の相関関係

寂しいときほどテレビの音量が大きくなる。耳が寂しさを紛らわせようとしているのかもしれない。最近では、テレビのボリュームが日々大きくなっていることに気づいて、ちょっと怖くなった。自分が壊れていってるような感覚。でも、誰にも相談できない。仕事上の相談はできても、心の隙間は埋めてもらえない。そんなときに限って、芸人の笑い声が不自然に心に突き刺さる。

日々の業務に追われて、心の隙間が広がっていく

登記、不動産、相続……日々多くの書類と格闘し、締切に追われる。事務員がいても、結局責任を背負うのは自分。どれだけ頑張っても「ありがとう」よりも「まだですか?」の声が先に届く。こうして積み重なった疲れが、夜の孤独をより重くする。仕事に没頭していれば寂しさは紛れるかと思ったが、結局、疲れ果てた体に追い討ちをかけるだけだった。

依頼者の問題を解決する一方で、自分の課題は放置

依頼者の困りごとには敏感に対応できるのに、自分のことになるとどうでもよくなってしまう。食生活も不規則、運動もしていない。誰かの人生をサポートする立場なのに、自分の人生の舵は放ったらかし。先日、依頼者の高齢女性から「先生は結婚しないの?」と無邪気に聞かれて、言葉に詰まった。いや、結婚云々の前に、誰かと向き合う余裕すらないのが本音なのだ。

「ちゃんとしてますね」と言われても内心はボロボロ

スーツを着て資料をきちんとまとめて、丁寧に話す。そんな外面に「しっかりしてますね」と言われる。ありがたい言葉ではあるが、それは表面上の話。内心は寝不足と不安にまみれていて、ちょっとしたことで涙が出そうになる日だってある。誰も見ていないと思ってトイレで深呼吸することもある。けれど、そんな感情すら「甘え」だと思ってしまう自分もいる。

仕事での達成感と空虚感の同居

難しい案件が無事に終わったとき、一瞬だけ安堵感が広がる。でも、それも束の間。すぐに次の案件に追われる日々。その繰り返しに達成感はあっても、心が満たされることはない。むしろ、「これでいいのか」と自問自答する時間のほうが長くなる。達成感の後ろには、ずっと付きまとってくる空虚感がある。それを誤魔化すために、今日もテレビをつけて、笑い声を聴いている。

それでも、明日はやってくる

虚しさの中にいても、朝は勝手にやってくる。電話は鳴るし、依頼も舞い込む。止まっている暇はないし、止まったら終わりだとも思っている。だけど、ふとした瞬間に、「今日もまた一人か」と感じてしまう。そんなときに、自分が誰かにとって必要な存在であることを思い出して、なんとか踏みとどまる。

虚しさに負けたくないと思う瞬間もある

誰にも頼られなかったら、たぶんここまで続けてこれなかった。依頼者が感謝してくれるその一言が、どれほど救いになってきたか。自分の存在意義を見失いかけた夜に、ふと思い出す言葉がある。笑顔で「助かりました」と言われた瞬間。その記憶を何度も心の中で再生して、今日という一日を終わらせる。

ひとりだからこそ気づける依頼者の苦しみ

ひとりでいることの辛さを知っているからこそ、依頼者の話に自然と耳を傾けられる。涙を見せる依頼者の姿に、自分を重ねてしまうこともある。「誰にも言えなくて…」という言葉には、こっちの心も刺さる。それでも、共感することが、相手の救いになるのだと信じたい。

共感できる力が、仕事の武器になることも

知識や手続きの正確さももちろん大事だ。でも、最後に信頼されるのは、人間としてどれだけ寄り添えるかだと最近思う。孤独を知る司法書士だからこそ、見えるものがある。テレビの笑い声に傷ついた夜があったからこそ、優しさを持って他人に接することができる。そう信じて、今日も仕事を続けている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

片付いたと思ったら、またひとつ──終わらない課題の連鎖に向き合う日々

片付いたと思ったら、またひとつ──終わらない課題の連鎖に向き合う日々

毎日がタスクとの終わりなき追いかけっこ

朝のコーヒーを一口飲んだその瞬間、ファックスの音が鳴り響く。内容を確認すれば、新たな相続登記の依頼。昨日「やっと一区切りついた」と思っていたばかりなのに、また今日も一から段取りを組み直し。司法書士の仕事は、見た目ほど整然としていない。タスクが終わったら、何かしら新しい用事が舞い込んでくる。気がつけば、ToDoリストは毎日少しずつ肥大化している。机の上のメモも、PCの付箋も、頭の中の整理すら追いつかない。そんな“追いかけっこ”が、ここ数年の日常だ。

「やっと一段落」と思った矢先に届く封筒

先日、ようやく数ヶ月がかりの案件が完了し、久しぶりに机の上が片付いた。事務員さんと「少しは落ち着きましたね」と話した翌日、今度は見慣れない差出人から書留が。開けてみれば、相続人の一人が音信不通で連絡が取れず、対応を求める内容。やれやれと思いながら、再び調査からのスタートだ。終わったと思っても、終わらない。そんな封筒がいつもどこかからやってくる。

なぜか連鎖する「予期せぬ問題」たち

不思議なもので、一つトラブルが起きると、なぜか他の案件でも何かが起きる。登記に必要な書類の抜け、依頼者の意向変更、連絡のすれ違い。しかもそれが、同じ日に重なったりするから始末に負えない。「今日はスムーズにいきそう」と思った朝ほど、だいたい何かが崩れる。予期せぬ問題というのは、どうも群れをなしてやってくるようだ。

書類は山のようにあるのに、机は片付かない

「紙で来る案件は減った」と言われる時代だけど、現場ではむしろ逆。書類の山は毎日増えていく。裁判所、法務局、金融機関、それぞれの様式も違えば対応期限も違う。どれかを優先すれば、別の案件が停滞する。全部に気を配っているつもりでも、気づいたら「あれ、これどこまで進んだっけ?」という状態になる。

整理しても戻ってくる「散らかり」現象

たまに思い切って書類の整理をする日がある。不要なコピーを捨て、ファイルをまとめ直して、見た目だけでもスッキリさせる。けれど、その効果はもって2日。次に郵送物が届けば、また積み上がっていく。完了した書類の控え、スキャンした原本、ついでに個人メモ。きれいにするほど、散らかるまでのスピードが速くなる気がする。

完了よりも「対応中」が常に多い現実

司法書士の仕事は、基本的に「途中」で止まっている案件が多い。登記申請も、相続関係の調整も、こちらが一方的に進められることばかりじゃない。相手の返事待ち、資料待ち、他士業との調整──終わるのは一瞬だけど、そこに至るまでが異常に長い。そのため、いつまでたっても「終わった感」が得られないのがつらい。

事務員ひとり、頼れるけど限界もある

うちの事務所には事務員がひとり。気が利いて、書類も丁寧に扱ってくれて、正直かなり助かっている。でも当然、すべては任せられないし、無理もさせられない。結局、自分のタスクは減らずに残り続ける。ありがたいけれど、頼りすぎてしまう自分にも後ろめたさがある。

小さな所帯の良さと苦しさ

2人だけの事務所は、意思疎通が早く、無駄な会議もない。そこはありがたい反面、どちらかが体調を崩せばもう業務がまわらない。忙しいときのフォローもしづらく、「今、声かけても大丈夫かな」と気を遣う日もある。結局、助けを求めにくくなってしまう。

お願いしすぎてしまう罪悪感

こちらも余裕がないから、つい急ぎの仕事をポンと渡してしまう。後で「あれ、無理させたかも」と反省する。でも、今さら「さっきのやっぱり自分でやるわ」とも言えず、ぐるぐると気まずさが残る。優秀な人ほど我慢してしまうから、余計に申し訳ない。

一人分の穴は二人では埋まらない

例えば、役所への確認電話が重なったとき。事務員が外出中で、こっちも相談中だと、何もできずに時間だけが過ぎる。こういう瞬間に、「人手が足りない」という現実を痛感する。二人でなんとかまわしているつもりでも、実は常にギリギリなのだ。

それでも、この仕事を辞めない理由

どれだけしんどくても、この仕事には“意味”がある気がしている。書類の山の中にも、小さな人間ドラマが詰まっていて、それに少しでも関われることが救いになる瞬間がある。誰かの人生の一部に静かに関与して、最後に「ありがとう」の一言をもらえたら、それだけで報われることもある。

小さな「ありがとう」が不思議と沁みる

派手な仕事じゃない。拍手をもらえるわけでもない。それでも、終わった後に「助かりました」と小さく言われるだけで、なぜか心が軽くなる。「こんなに疲れてるのに、また続けようと思っちゃう自分って変だな」と思いつつ、それがこの仕事の魔力かもしれない。

疲れの奥にある“必要とされている感覚”

誰かに必要とされている、という感覚。それがなかったら、とっくに辞めていただろう。忙しさと疲れの中にも、やりがいがある──そう自分に言い聞かせながら、また今日もファックスの音に反応してしまう。片付いたと思ったら、またひとつ。それでも向き合っていくのが、この仕事だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。