あの頃に戻れたら、司法書士を選んでただろうか

あの頃に戻れたら、司法書士を選んでただろうか

あの頃の自分には、司法書士なんて知らなかった

18歳のとき、進路指導室の壁に貼られた「人気職業ランキング」には、司法書士の「し」の字もなかった。親は「公務員がいい」と言い、先生は「法律関係なら弁護士か裁判官だな」と言った。私はといえば、「人並みに安定して、そこそこ稼げればいいや」と、どこか他人事のように自分の人生を決めていた。司法書士という職業を知ったのは、大学を出て数年後、転職情報誌の片隅でだった。

大学生の頃は「安定」しか見てなかった

正直に言えば、やりたいことなんてなかった。ただ、親が喜びそうな会社に入って、結婚して、家を建てて、老後に年金がもらえればいい。そんなふうに思っていた。司法書士なんて選択肢が浮かぶ余地はなかった。資格を取るなんて一部の意識高い人の話で、自分には関係ない世界だった。だからこそ、今こうしてこの職についていること自体が、少し不思議な気もする。

国家資格=弁護士か公務員のイメージ

「法律系の資格を目指すなら、司法試験か国家公務員」と、大学のキャリアガイダンスではそう教わった。司法書士や行政書士の話はほとんど出なかった。それもそのはず、当時はネットもまだ情報が少なく、司法書士の仕事の中身なんて誰も知らなかった。自分の無知を悔やむこともあるけれど、知るきっかけがなければ気づけなかったのも事実だ。

司法書士の存在を知ったのは、30代になってから

最初の会社を辞めて転職活動をしていたころ、「独立できる仕事」という特集の中で司法書士という職業を見かけた。聞いたことはあるが、何をする仕事なのかは全く知らなかった。そこから調べ始め、勉強を始めて、気づいたら何年も過ぎていた。もっと早く知っていたら…という思いが、今でもふとよぎることがある。

選ばなかった道と、選ばされた道

自分の人生を自分で選んでいるつもりでも、実際には周囲の期待や空気に流されてきた。司法書士を選んだのも「もう逃げ場がない」と思ったからだった。やりたかったというより、やらざるを得なかった。そういう消極的な選択だったからこそ、今の自分に迷いが残っているのかもしれない。

あの頃、何を大事にしてたんだろう

20代の頃は、「友達から浮かないこと」「親に心配かけないこと」ばかりを気にしていた。見栄と体裁がすべてだった。仕事は何でもよくて、ただ世間並みであればよかった。司法書士という道があったとしても、そのときの自分は絶対に選ばなかっただろう。なぜなら、”誰かに説明しにくい職業”だったからだ。

仕事より「人の目」が怖かった

「それ、どんな仕事なの?」と聞かれて説明できないことが恥ずかしかった。司法書士って、言葉では伝わらない。弁護士や税理士のようにパッと理解される職業ではない。その曖昧さに耐えられなかった気がする。今なら堂々と「登記の専門家です」と言えるけど、若い頃の自分にはその勇気がなかった。

気づいたら流されて、今ここにいる

転職に失敗して、貯金が尽きかけて、もう資格しかないと思ったときに司法書士が残っていた。選んだというより、残っていたから拾った。それが正直なところだ。でも、それでも何とかここまで来た。選ばなかった道と、選ばされた道。どちらが正解かは今でもわからない。

今から振り返る「もし司法書士だったら」

「もっと早くこの道を選んでいたら、人生違っただろうな」と思うことはある。若いうちに合格していたら、今ごろもっと余裕があったかもしれない。でも、そうだったら今みたいに人の苦しみに寄り添う仕事はできていなかった気もする。回り道したからこそ、見える景色がある。

早くからやってたら、もっと楽だったかも

20代のうちに合格していたら、体力もあったし、人間関係も柔軟に築けたと思う。今は人と話すのが億劫で、依頼者の言葉にも過敏になってしまう。それでも当時は、こんな仕事があることすら知らなかった。だからこそ、あの頃の自分に教えてやりたい。「こんな世界もあるんだぞ」と。

それでもたぶん、苦労はつきまとう

どの道を選んでも苦労はある。司法書士になったからといって、すべてが順調にいくわけではない。仕事は減るし、報酬は上がらないし、ミスすればすべて自己責任だ。それでも、誰のせいにもできない分、自分の足で立っている感覚だけはある。それが救いでもあり、重荷でもある。

誰にも頼れない世界で、生きていけたか?

20代の自分が、今のような孤独に耐えられただろうか。多分、無理だったと思う。今の自分ですら、正直つらい日がある。でも、頼れないからこそ、強くならざるを得なかった。それが司法書士という仕事であり、人生なのだと最近ようやく思えるようになった。

今の仕事に意味を見いだせるか

毎日、黙々と書類を作って、提出して、報告して。ときどき、「何のためにやってるんだろう」と思うことがある。でも、その書類の先にある人の人生を想像できたとき、不思議と少しだけ心が軽くなる。たぶん、その一瞬のために働いてるんだろうなと思う。

登記をしても、人の人生は変わらない

登記をしたからといって、その人が幸せになるわけではない。単なる手続きの一部でしかない。でも、誰かがやらなければ進まないこともある。歯車の一つにすぎなくても、その歯車がなければ動かない現場もある。そう思って、今日もまたひとつ、書類を仕上げている。

でも、書類の向こうにある「想い」を感じることはある

ある日、相続の手続きに来た女性が、「父のこと、ちゃんと残せてよかったです」と言った。たった一言だったけれど、その瞬間に、この仕事の意味を少しだけ実感した。書類は冷たい。でも、その冷たさの中に、人の温度を感じる瞬間が、たしかにある。

それだけで、少しだけ救われる日がある

誰にも褒められなくても、感謝されなくても、そういう一瞬があると救われる。今日もまた、地味で報われにくい仕事だけれど、誰かの「よかった」のために続けている。もしもあの頃に戻れたとしても、たぶん今と同じように悩んで、同じように生きている気がする。

過去より、今をどう生きるか

もうあの頃には戻れない。それでも、今を変えることはできる。司法書士としての人生は平坦じゃないけれど、だからこそ味わいもある。目の前の仕事に向き合いながら、今日もまた少しだけ、未来の自分に誇れる選択をしたいと思う。

あの頃には戻れないけど、まだ変われるかもしれない

人は変われる。年齢も経験も関係ない。何を選び、何を捨て、何に耐えてきたか。そういう積み重ねが、今の自分を形作っている。司法書士としての未来に、まだ希望を持ってもいいはずだ。

今日もまた、書類と向き合いながら考えてる

机に向かって、パソコンを叩きながら思う。「あの頃に戻れたら」と。けれど、結局のところ、過去は変えられない。今の自分が、どこまでやれるか。そんな問いと向き合う日々が続いている。

「なりたかった自分」より「続けてる自分」を肯定してみたい

夢見た自分にはなれなかったかもしれない。でも、逃げずにここまで続けてきた自分を、もう少し認めてもいいのかもしれない。そう思えた日は、少しだけ前を向ける気がする。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。