疲れた顔をしてると事務員さんに心配される

疲れた顔をしてると事務員さんに心配される

鏡に映る自分の顔に驚く朝

朝、洗面所の鏡に映る自分の顔を見て、ギョッとすることがある。「なんだこの顔……」とつぶやきたくなるような、目の下のクマ、まぶたの腫れ、口元の緩み。寝不足やストレスがそのまま表情に出ている。自分では普通のつもりでも、見た目に出てしまう年齢になったのだと痛感する。顔色が悪いと、それだけで「今日は何かあったのか」と思われてしまうこともある。司法書士という立場上、ある程度の「整った印象」が求められるが、それを保つ余裕がなくなる日もある。

無表情のつもりが「不機嫌そう」と言われる

事務所で書類作成に集中しているとき、表情が消えているらしい。無意識のうちに口角が下がり、目が据わってしまっているようで、事務員さんから「先生、何かありました?」と心配されたことがある。本人は無表情のつもりでも、他人から見れば「不機嫌そう」に見えるのだ。年齢のせいか、顔の筋肉の緊張がそのまま表情に反映されやすくなっている気がする。あれからは意識して口角を上げるようにしているが、それすらも疲れていると続かない。

寝不足の翌日は特にひどい

前日に遅くまで相続関係の書類を仕上げていたり、申請の締切が迫っていて寝不足だった翌日は、特に顔がひどい。目が腫れぼったく、肌もくすみがちで、鏡を見るのが嫌になる。そんな状態で事務所に入ると、事務員さんがそっと様子をうかがってくる。「大丈夫ですか?」と聞かれるたびに、疲れが表に出てしまっている自分に自己嫌悪を感じる。できれば気づかれたくなかった。けれど、顔に出てしまうものはどうしようもない。

年齢のせいか疲れが顔に出やすくなった

若い頃は徹夜明けでも案外平気だったし、顔色も今ほど崩れなかった気がする。ところが45歳にもなると、ちょっとした睡眠不足やストレスでも、顔に色濃く現れるようになった。むくみやクマだけでなく、表情の張りそのものがなくなってくる。そういう自分を鏡で見るたび、「老けたな」「疲れてるな」と感じてしまう。そのせいで、さらに気持ちが沈んでいくという悪循環。表情ひとつで職場の空気も左右してしまう自分の立場が、つらく感じるときもある。

「大丈夫ですか?」のひと言が刺さる

事務所での午前中、黙々と作業をしていたら、ふいに事務員さんから「先生、大丈夫ですか?」と声をかけられた。優しいそのひと言が、なぜか胸に刺さる。気遣ってくれているのはありがたい。でも、その裏に「顔に出てますよ」という無言のメッセージを感じてしまうと、恥ずかしさと情けなさでいっぱいになる。上司として、頼りがいのある姿を見せたい気持ちと、現実の疲れた自分の間で、どうしたらいいか分からなくなる。

気遣いに感謝しつつも申し訳なさでいっぱいに

「ありがとうございます、大丈夫ですよ」と笑って返すものの、本当は少ししんどい。でもそれを言葉にすることで、相手に余計な心配をかけてしまうのではと考えてしまう。気遣いに対して素直に感謝したいのに、受け取る自分の側が勝手に気後れしてしまって、どこかぎこちない返答になってしまうのだ。「気を遣わせて申し訳ないな」と思うたびに、自分の疲れすらも否定したくなる。

返事に困って「大丈夫ですよ」と笑ってしまう

本当は「今日はちょっとしんどいです」と言いたい。でもそれを口に出すと、事務員さんの表情が曇ってしまうのが怖い。だからつい、笑って「大丈夫ですよ」と返してしまう。その笑顔が自分でも不自然だと感じていて、ますます落ち込むという悪循環。「もっと自然に弱さを見せてもいいのかもしれない」と思いながら、それができない自分に、また自己嫌悪を感じる。

本当は「疲れてます」と言いたいけれど言えない

自分だって人間だから、疲れる日もある。でも、「疲れた」と言葉にしてしまうと、どこか責任を放棄したような気になってしまうのだ。「弱音を吐いてはいけない」「事務員さんを不安にさせてはいけない」という謎の義務感が、自分の首を締める。だから、本音を押し殺して笑顔を作ってしまう。その笑顔がまた不自然で、結果的に事務員さんを心配させてしまうという、皮肉なループに陥っている。

気を張って笑顔を作る日々

司法書士として、事務所の空気を守るのは自分の責任だと思っている。だからこそ、どんなに疲れていても、表情だけはできるだけ明るく保とうとする。けれど、それは思っている以上に消耗する作業でもある。笑顔を“つくる”ことは、自分の感情に逆らうことでもある。気を張り続けていると、その反動がふとした瞬間にやってくるのだ。

事務所の空気を悪くしたくないという責任感

少人数の事務所では、上司の顔色ひとつで空気が変わる。これは決して大げさではなく、特に自分が不機嫌そうに見えた日は、事務員さんも余計に慎重な動きになる。だからこそ、笑顔でいるようにしているし、声のトーンも気にしている。だが、心と表情のギャップが大きいと、次第にそれがストレスになっていく。自分を偽っているような気がして、心の奥がずっとチクチクと痛む。

だけど無理を続けるとどこかで反動が来る

ずっと「大丈夫なふり」を続けていると、ある日突然ガクッとくる。身体が動かなくなったり、集中力が切れてしまったり、何より感情が鈍ってしまうことが怖い。笑っているはずなのに、心がまったく動いていないと気づいたときの空虚さは、なんとも言えない。疲れを我慢し続けていると、どこかで“もう無理”と感情がシャットダウンしてしまう。だからこそ、少しだけでも本音を出せる場が必要だと感じている。

事務員さんに気を遣わせてしまう自分

一緒に働いている事務員さんは、本当によく気がつく人だ。私のちょっとした表情や態度の変化にも敏感で、気づかれたくないときにも、しっかり見抜かれてしまう。ありがたい反面、「また気を遣わせてしまった」と申し訳なくなることも多い。上司としての責任感と、人としての不器用さの間で、複雑な気持ちになる。

コーヒーを入れてくれる手が優しすぎてつらい

ある日、疲れ切った私に気づいて、そっとコーヒーを入れてくれた事務員さん。その湯気と香りに、ほっとする一方で、何とも言えない申し訳なさが込み上げた。「いつもありがとうございます」の一言がうまく出てこなくて、ただ「助かります」とだけ呟いた。こういう何気ない優しさが、疲れた心に染みすぎて、逆に涙が出そうになる瞬間がある。感謝の気持ちは山ほどあるのに、それを上手に伝えられない自分がもどかしい。

気づかれたくなかった自分の弱さ

できることなら、気づかれたくなかった。「先生、疲れてますね」と言われると、図星すぎて何も言えなくなる。完璧である必要はないと分かっていても、せめて“頼りがいのある上司”くらいには見せていたかった。自分の弱さが露呈すると、急に立ち位置が不安になる。「あの先生も人間なんだな」と思ってもらえるのは嬉しい半面、どこか居心地が悪い。

それでも誰かが気にしてくれるのはありがたい

心配されたくないと思いながらも、誰かが気にかけてくれることのありがたさは、やっぱり身にしみる。疲れているときにかけられる「大丈夫ですか?」のひと言が、自分を立て直すきっかけになったりもする。結局、人は一人では持ちこたえられない。自分が思っている以上に、周りの人の優しさに支えられている。

気遣いがある職場は本当に救いになる

事務員さんのちょっとした声かけや、温かいお茶一杯が、忙しい日の唯一の癒しになっている。きっとこちらが思っている以上に、事務員さんも気を遣ってくれているのだろう。その気遣いに、できる限り応えられるように、自分も少しずつでも「疲れてます」と言える勇気を持ちたい。そんな風に思えるようになっただけでも、前より少しだけ、気持ちがほぐれてきたような気がする。

「心配されること」が今の自分の支えになっている

以前は「心配される=頼りない」と感じていた。でも今は少し違う。「誰かが自分のことを気にかけてくれる」という事実が、日々の支えになっている。もちろん強くありたいという気持ちはあるけれど、人に甘えることも悪くないと思えるようになった。疲れた顔をしてしまう日もある。でも、そんな自分も受け入れてくれる職場があるということ。それが、この仕事を続けられている大きな理由かもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。