ちょっとだけ泣いてもいいですか

ちょっとだけ泣いてもいいですか

ふと、涙が出そうになる日がある

司法書士として独立して十数年。田舎の小さな事務所で、日々書類と格闘している。天気が良くても、仕事がひと段落しても、心が晴れない日がある。そんな時は、ふと「ちょっとだけ泣いてもいいですか」と、誰かに聞いてみたくなる。別に大きな失敗をしたわけでもない。命に関わることが起きたわけでもない。ただ、静かに積もった疲れや寂しさが、胸の奥で鈍く疼くのだ。強がってばかりの毎日では、心がすり減っていくばかりだ。

一人きりの事務所、静けさが逆に重い

朝9時に事務所を開け、事務員さんが来るまでの1時間、部屋の中は無音に包まれている。電話も鳴らないし、外の音も遠い。その静けさは、決して心地よいものではなく、まるで世界から置き去りにされたような感覚に陥ることがある。誰にも気づかれず、何も変化のない日々。時計の針の音だけがやけに響いて、それがまた胸を締めつける。孤独って、こういうことなのかもしれない。

パソコンのカタカタ音だけが鳴る午前中

午前中は書類作成や登記申請の準備で、パソコンのキーボードを打つ音がリズムを作っている。でも、それ以外の音がないからこそ、その「カタカタ」が空虚に感じられてしまう。気がつけば、背中が丸まり、ため息を何度も吐いている。やらなきゃいけないことは山ほどあるのに、心が前に進まない。効率の悪さにイライラし、自分に嫌気が差す。でも誰にも弱音を吐けないこの状況が、一番しんどい。

ラジオをつけても心は晴れない

気分転換にラジオをつけることもある。パーソナリティの明るい声やリスナーからの投稿に笑い声もこぼれる。でも、それを聞きながら「自分には関係のない世界だな」と思ってしまうことも。むしろ、他人の楽しそうな話が遠く感じて、余計に虚しくなる。笑い声がエコーのように胸に響いて、それが泣きたい気持ちをかき立てる。そんなとき、音ってこんなにも人を刺すのかと実感する。

「この仕事、向いてないのかも」と思う瞬間

仕事をしていると、ふと「自分はこの仕事に向いていないのでは」と思う瞬間がある。特に、クレームや理不尽な要望を受けたときには、自信が音を立てて崩れていく感覚に襲われる。どうしても感情を押し殺して対応しなければならない場面も多く、心が擦り減っていく。そのたびに「もう辞めたい」と本音が漏れそうになるが、誰にも言えずにまた一日が過ぎていく。

依頼人の怒声に心が折れかけて

以前、登記の手続きについて説明していたとき、少しでも不安を感じたのか、依頼人が突然怒り出した。こちらには非がなかったが、怒声を浴びせられると、心が萎縮してしまう。「あなたプロでしょ?」という言葉が、まるで刃物のように突き刺さった。プロだからこそ丁寧に進めているのに、その努力が一瞬で無にされる。そういうとき、「もう全部投げ出したい」と思ってしまう。

なぜか自分を責めてしまう性格

怒鳴られたとき、頭では「理不尽だ」とわかっていても、心は「自分の説明が悪かったのかもしれない」と責め始める。そういう性格なのだ。真面目であることは良いことのはずなのに、それが自分を追い詰める。小さな失敗や指摘が何倍にも膨れ上がって、「自分なんて」と思ってしまう。それでも翌日にはまた机に向かってしまう自分が、時々情けなく思える。

たまには弱音を吐いてもいいよね

「泣くな」「弱音を吐くな」「頑張れ」と言われ続けてきた。でも、それを真に受けて我慢ばかりしていたら、どこかで限界が来る。だから、誰かに弱音を吐きたくなる夜がある。少しでも吐き出せたら、明日もう一度だけ頑張れる気がする。司法書士という仕事は、見えないところで心をすり減らす仕事だ。だからこそ「泣いてもいいですか」と、自分に問いかけることがあってもいいと思う。

「先生は大変ですね」と言われるたびに

「先生は大変ですね」って、言われることがある。善意のつもりなのだろう。でも、それを聞くたびに、「だからもっと頑張ってくださいね」と言われているような気がしてしまう。気遣いの言葉のはずなのに、プレッシャーに感じてしまうのは、自分が疲れている証拠かもしれない。そういう日は、帰り道に車の中でちょっとだけ泣く。信号待ちの間、誰にも気づかれないように。

言葉の裏にある「だから我慢してね」がつらい

「頑張ってますね」「偉いですね」そんな言葉も、受け取り方によってはしんどくなるときがある。特に、自分がギリギリの状態で耐えているときは、その言葉が「だから文句言わずにやってね」に聞こえてしまうのだ。もちろん悪意がないのはわかっている。でも、疲れていると、優しい言葉すら重く感じてしまう。そういう日は、早く寝て、夢の中くらいは穏やかでいたいと願ってしまう。

事務員さんにも言えない本音

一緒に働いてくれている事務員さんには本当に感謝している。でも、事務所の責任者として、弱音を見せるわけにもいかず、心の奥にしまい込むことが多い。「もう無理です」なんて言えるわけもない。だから、いつも笑顔で「大丈夫ですよ」と返している。でもそのたびに、自分の本音がどこかに置き去りにされていくような気がして、少しだけ寂しくなる。

一緒に頑張ってくれてるのはありがたいのに

彼女は本当に真面目で、一生懸命働いてくれている。何も言わずにこちらの意図を汲んでくれることも多くて、ありがたい存在だ。でも、それがまた「ちゃんとしなきゃ」と自分を追い詰める要因にもなる。「自分だけがしんどいわけじゃない」と思うと、余計に弱音を言えなくなる。それでも本当は、「今日はつらいですね」と誰かに言ってもらいたいだけなのかもしれない。

それでも続けている理由

やめたいと思ったことは、数えきれないほどある。でも、それでもこの仕事を続けているのは、やっぱり人との関わりがあるからだ。どこかで誰かの役に立っている。その感覚が、細い糸のようにつながって、自分を支えてくれている。泣きたくなる日もあるけれど、それでも、また書類を前にして一日を始めてしまう。それが、司法書士という仕事なのかもしれない。

依頼人の「ありがとう」が心に残る

登記が無事完了したとき、「ありがとうございました。本当に助かりました」と頭を下げられると、どれだけ疲れていても心が少しだけ温かくなる。その「ありがとう」が、きっと自分をここまで引っ張ってくれたのだと思う。大きな報酬じゃなくてもいい。誰かの不安を取り除けた、それだけで、もう少しだけ頑張れる気がする。そんな日があるから、やめられない。

何気ない一言に救われる瞬間

「先生って、ちゃんとしてますね」その一言が、意外にも心に残った。こちらは意識していなかったことでも、誰かが見てくれている。それだけで、背筋が少し伸びる。たった一言が、心の支えになることもある。だから、自分も誰かにとって、そんな存在になれたらいいと思う。それが、今の仕事を続ける原動力なのかもしれない。

自分の小さな役割でも、誰かの人生を動かしている

登記や相続の手続きなんて、日常生活からすれば地味で複雑で、できれば関わりたくないものかもしれない。でも、その手続き一つが、誰かの人生の節目に深く関わっている。亡くなった親の土地、夢のマイホーム、会社設立。どれも人の人生にとって大切な瞬間だ。そこに自分の名前が関わっている。それだけで、少しだけ誇らしく思える。泣きながらでも、続ける意味はある。

誰かの孤独に寄り添える記事にしたい

これは、誰かに読んでほしいというより、「自分自身に向けて書いている」のかもしれない。でももし、同じように日々の業務に疲れて、「ちょっとだけ泣きたい」と思っている誰かがいたら、この文章が少しでも寄り添えたら嬉しい。弱さを見せることは、決して悪いことじゃない。だから今夜くらい、ちょっとだけ泣いてもいいですか。

「泣いてもいいですか」と聞ける場所がほしい

誰かに本音をぶつけられる場所があると、どれだけ救われるだろうか。SNSでは強い言葉が飛び交い、職場では弱音はご法度。そんな中で、「泣いてもいいですか?」と聞ける場所があれば、人はもう少しだけ優しくなれるのかもしれない。この記事が、そんな場所のひとつになればと思う。きっと、私だけじゃない。あなたも、泣きたい夜があるなら、泣いてもいいんです。

誰かが頷いてくれるだけで十分

「それ、わかるよ」と誰かが言ってくれるだけで、救われることがある。アドバイスなんていらない。ただ、共感してくれる人がいる。それだけで心は軽くなる。司法書士だって、一人の人間。泣くこともあるし、落ち込む日もある。そんな時に、「それでいいよ」と言ってくれる存在が、どれほどありがたいか。そう思いながら、また明日も事務所の鍵を開けるのだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。