見送るばかりの人生に、ふと気づいてしまった
いつからだろうか。「あいつ、結婚するらしいよ」「今度マンション買ったんだって」そんな話ばかりが耳に入ってくるようになった。お祝いの言葉をかけながらも、胸の奥では別の感情がひっそりと息をしている。自分だけが取り残されていくような、そんな居心地の悪さがある。司法書士として、人生の節目に立ち会うことは多い。登記や相続で関わる人たちは、何かを手に入れたり、誰かを見送ったりしながら人生を整えていく。気づけば自分は、他人の人生を見送るばかりだった。
祝福の言葉が、時に胸を締めつける
おめでとう、という言葉ほど気を遣うものもない。相手の幸せを心から喜んでいるように見せなければならない。でも本音を言えば、「おめでとう」と言いながら心が凍りついているときもある。先日、大学時代の友人が子どもを抱いて年賀状を送ってきた。幸せそうな笑顔、穏やかな暮らしぶり。そこに自分の居場所はなく、ただ写真を見つめているだけの自分がいた。祝福を口にすればするほど、自分の空白が際立っていく気がしてならない。
「おめでとう」が言えない自分に自己嫌悪
人の幸せを喜べないなんて、人としてどうなんだろう。そう思うたびに、自己嫌悪の波が押し寄せてくる。心から祝える時もある。でも、余裕がないときほど、その言葉が出てこない。心がギュッと固まって、口先だけの「よかったね」になってしまう。そんな自分がまた嫌になって、結局その場から逃げるようにフェードアウトしてしまうこともある。SNSも年賀状も、どれも幸せの報告に見えて、まるで“自分だけ足踏みしている”ことを突きつけられているようだった。
まぶしすぎる成功報告と、沈黙の自分
最近、同期の一人が独立して司法書士法人を立ち上げたらしい。社員も抱えて、都心のオフィス。LinkedInに流れるその投稿には「すごいね!」「応援してます!」とコメントがずらり。いいな、と思う反面、なぜか心がシンとする。自分も同じ資格を持って、同じだけ努力してきたつもりだった。けれど気づけば、自分は何も発信せず、何も語らず、ただ一人地方の事務所で黙々と書類に囲まれている。沈黙という選択が、余計に「整っていない感」を助長しているのかもしれない。
なぜか他人ばかり順調に見える不思議
人は見たいものしか見ないのかもしれない。それにしても、なぜこんなにも他人の人生ばかり「順調」に見えるのか。不思議で仕方ない。思い返せば、学生時代から誰かと比べては「自分はまだまだだ」と思いがちだった。あの頃も今も、基準はいつも他人にあった。でも、本当に彼らの人生は整っているのだろうか。表面だけをなぞっているだけで、裏ではきっと誰もがそれぞれの苦労を抱えている。そう思おうとしても、実感としてはなかなか腑に落ちてこない。
SNSが映し出すのは“演出された人生”
SNSというのは、便利だけれど毒にもなる。特に、心が弱っているときは最悪だ。誰かの投稿ひとつで、自分の全人生が劣っているような錯覚に陥る。先日、休日出勤中にスマホを開いたら、友人がハワイで結婚式を挙げていた。美しいビーチ、笑顔の家族、きらびやかなドレス。そこに「#幸せな時間」というタグがついていた。見た瞬間、スマホを伏せた。あれはあくまで“切り取られた一瞬”だとわかっていても、比べてしまう。そして、虚しくなるのだ。
比べてはいけないとわかっていても
「比べるな」「マイペースでいこう」そんな言葉は耳が痛いほど聞いてきた。でも、実際に比べずにいられるほど強くはない。ましてや司法書士という職業は、成果やキャリアが可視化されやすい。何件登記をこなした、どんな案件を受けた、どんなメディアに出た。そんな情報ばかりが耳に入ってくる。比べない努力をしても、どこかで無意識に“自分の位置”を探してしまっている。これはもう、職業病なのかもしれない。
司法書士という仕事と「整わなさ」
司法書士の仕事は、きっちり整えることが求められる。登記の一文字が違えば、手続きが止まる。相続の書類に一行漏れがあれば、家庭裁判所から差し戻される。そんな毎日の中で、自分自身の生活は、どんどんほころびだらけになっていく。不思議なもので、他人の人生は整えても、自分のことになるとからっきしダメだ。寝不足、食生活の乱れ、人との会話不足。整っていないのは、まぎれもなく自分自身だった。
誤字一つ許されない書類と、ボロボロな自分
ある日、依頼者の登記申請書を誤って一文字だけ間違えた。すぐに気づいて訂正したが、提出し直しとなった。そのとき、ふと「こんなに他人のことに神経を使っているのに、自分のことはどうでもよくなってるな」と思った。睡眠時間は4時間、朝食はコンビニパン、そして休日出勤。自分をボロ雑巾のように扱って、でも書類はミスなく出さなきゃいけない。完璧な書類と、くたびれた自分。そのギャップが、何よりもしんどい。
完璧な書類の裏にある疲弊
世の中から見れば、「あの人はしっかりしてる」という印象かもしれない。でも、その裏側はいつもギリギリだ。細かいチェック、期限管理、顧客対応……すべてのタスクが遅れなく回るように気を張っている。そのせいか、オフになった瞬間、何もできなくなる。まるでスイッチが切れたかのように、動けない。整えることにエネルギーを費やしすぎて、他の何かが削られているのを実感する。たまには、少し壊れても許される余白が欲しいと思う。
他人の相続は整理できても、自分の生活は…
相続の相談を受けるたびに、「人生の整理」を目の当たりにする。亡くなった方の思いや、家族の関係、残された人の未来。それを、書類でまとめるのが自分の仕事だ。けれど、自分の人生となると、まったく整っていない。書類棚は山積み、冷蔵庫には賞味期限切れの卵、そして洗濯物は干しっぱなし。他人の整理はできても、自分の生活は放ったらかし。なんだか、プロのくせに情けなくなる。
書類は片付いても、心の整理は終わらない
書類がすべて片付き、静かな事務所に一人で座っていると、ふと心がざわつく。「今日はよくやった」と思えない日が多い。なんとなく空虚で、何か大事なものを見落としている気がする。心の整理というのは、誰かに手伝ってもらえないし、提出先もない。仕事に追われるうちに、気持ちの蓄積はどこへもいかず、じわじわと澱のように残っていく。そして、それがふとした瞬間に噴き出すのだ。
それでも、今日を終わらせるために
完璧な日なんて、もう求めていない。ちょっとだけ頑張って、ちょっとだけ心を休めて、それで今日が終わればいい。誰かの人生が整って見えても、自分のリズムで呼吸を整えられたらそれでいい。そう思えるようになるには、まだ時間がかかる。でも、この仕事をしてきた年月が、誰かの支えになっていたこともきっとあったはず。そう信じて、今日も机に向かう。
ひとり事務所で食べるコンビニ飯の重さ
気づけば夜の9時を過ぎていた。事務員はとっくに帰っていて、コンビニで買ったカップ麺の湯を注ぐ。事務所の蛍光灯の下、ズズッと音を立ててすするこの時間。誰にも見せないこの風景が、自分のリアルだ。コンビニ飯が悪いわけじゃない。でも、これが日常になると、どこかで「自分の人生ってこれでいいのか?」と問いが浮かぶ。その問いを、また麺の湯気と一緒にごまかして、今日が終わっていく。
誰にも言えない愚痴の置き場所
愚痴というのは、口に出せば軽くなる。でも、司法書士という立場である以上、あまり弱音も吐けないし、聞いてくれる人も多くはない。だからこそ、こうやって文章にして残しておく。誰かの役に立つかもしれないし、過去の自分にとってもヒントになるかもしれない。愚痴を否定せず、正直に残すことが、今の自分にとっては心のバランスを取る手段になっている。
整わない人生にも、意味はあるのか
人生が整っていないと感じるのは、たぶん「こうあるべき」に縛られているからだ。家族、年収、キャリア、休日、SNSにアップできるような“完成された構図”。でも現実は、もっと雑で、思い通りにいかなくて、グチャグチャだ。だからこそ、整えようと努力するし、誰かの役に立ちたいと願うのかもしれない。整っていない時間にも、ちゃんと意味があると信じたい。
誰かのためにやってきたことだけが、残っていた
ふと、依頼者からの感謝の手紙が目に留まった。「先生のおかげで前に進めました」と書いてあった。整っていない自分でも、誰かの人生にとっては大事な存在になれていた。それだけで、今日は少し報われた気がする。自分の人生が整っていないからこそ、人の痛みや迷いにも寄り添える。そう思えば、整っていない今も、悪くない。少しだけ、自分を肯定できた夜だった。