よくがんばってるよって、年に一度でいいから言われたい

よくがんばってるよって、年に一度でいいから言われたい

「がんばってますね」のひと言が、どれほど救いになるか

司法書士をやっていて、一番きついのは「誰にも見られてない感」かもしれません。手続きは地味で、成果が見えづらい。トラブルが起きないように動くのが仕事だから、何も起きなかったら「普通」で終わる。でも、その“普通”を保つのに、どれだけ神経をすり減らしているか、知ってる人は少ない。そんな中で、「よくがんばってますね」なんて言葉を、年に一度でも聞けたら、それだけで少し救われる気がするんです。

誰にも褒められない日々の積み重ね

日々こなしている業務は、細かくて地味で、間違いが許されないものばかり。登記のミスはもちろん許されないし、依頼者とのやりとりも、ちょっとした言葉の選び方ひとつでトラブルになりかねない。そういう緊張感の中で働きながらも、「ありがとう」や「助かったよ」と言われることは稀です。特に長く付き合いのある顧客ほど、こちらの努力を当然のように受け取っていて、感謝の言葉は年々減っていく。誰にも褒められないまま、淡々と日々を重ねていく。虚しさだけが積み上がる感覚です。

書類は山積み、でも成果は「当たり前」扱い

たとえば、月末に集中する抵当権抹消の案件。20件以上が重なって、事務員と手分けしてギリギリで片付ける。昼食もろくに取らず、電話とFAXと書類の波をかきわけて、ようやく終わらせた。でもそれは「仕事だから当然」と言われて終わり。お客さんにとっては一瞬の手続き。でもこちらは、何日も準備してる。そんな努力も報われず、疲労だけが残ると、「これって、何のためにやってるんだろう」と思わずにいられません。

誰にも気づかれない“日常の偉業”

通帳の名義変更を忘れた高齢者の相続人に気づいて、トラブルを未然に防いだときもありました。依頼者に「これ、やっといてよかったですよ」と伝えても、「ああ、そうなんだ」と軽く流されて終わり。自分がいなければ揉めていたかもしれない。それでも感謝されることはない。まるで透明人間のように扱われる。そんな“気づかれない偉業”を毎日のように積み重ねているのに、誰もそれを見てくれないのです。

年に一度でも、認められたかった

正直、毎日「がんばってますね」と言ってほしいわけじゃないんです。甘ったれだと思われたくもない。でも、年に一度でいいから、「いつもよくやってるね」とか「大変だよね」と声をかけてもらえたら、それだけで心の張りが戻ってくる気がする。たった一言に、救われたいときがある。それは贅沢なんでしょうか。

感謝されるより、まず労われたかった

「ありがとう」ももちろん嬉しいけど、正直それよりも「大変だったよね」とか「疲れてるでしょ」と言ってもらえた方が心に沁みるときがあります。感謝される前に、“しんどさ”を分かってもらえるだけで、気持ちが軽くなる。それは、誰かに「見えてるよ」と言ってもらえることだからなんでしょうね。無理して笑ってる自分に気づいてくれる人がいたら、それだけでだいぶ違うんです。

がんばってるかどうかすら、自分でわからなくなる

長く働いていると、もう「がんばってるかどうか」すらわからなくなってくる。気づいたら、無表情でキーボードを打っていて、「いつからこんな顔してたんだろう」と思うこともある。誰かに「がんばってるね」と言われないまま過ごしていると、自分自身にも無関心になってしまう。気持ちが麻痺していくのがわかるんです。

司法書士という職業の“見えないしんどさ”

見た目には穏やかに見えるかもしれないこの仕事。でも、その裏には常に「ミスできない」「確認が命」というプレッシャーが渦巻いています。誰かの人生や財産に関わる仕事だからこそ、ちょっとしたミスも許されない。そんな重責を抱えながら、孤独に戦っている同業者も少なくないと思います。

責任ばかりが積み上がる毎日

登記漏れ、印鑑の間違い、書類の提出先を一つ間違えただけで、大事になる。だから確認作業に何重にも時間をかける。けれど、それが「当たり前の作業」とされて評価されることはない。責任だけがのしかかり、リターンは少ない。時々、自分は一体誰のために働いてるんだろうと、本気で考えてしまいます。

うまくいっても当然、ミスは即クレーム

20件スムーズに終わっても、1件トラブルになれば全部台無し。人の記憶には「失敗」だけが残る。どれだけ事前に調整しても、相手先の都合や行政の動きで狂うこともある。それでも「プロでしょ?」と一言で片づけられる。成功しても誰にも褒められず、失敗だけが残る世界に、居続けるしんどさは、なかなか言葉では表現しきれません。

「なんでも屋」扱いされるときの虚しさ

遺言、相続、会社設立、不動産、成年後見……気づけば「それ司法書士の仕事じゃないのに」と思う相談も多い。でも、断ると「冷たい」と思われるから、つい受けてしまう。気づけば“なんでも屋”。そういう時、ふと「自分の専門性って何だっけ?」と不安になる。便利屋としてじゃなく、専門家として扱ってほしい。それだけのことなのに、それすら難しいのが現実です。

それでもやっていく理由

こんなにも愚痴をこぼしながらも、司法書士を辞めようとは思っていない。それはやっぱり、この仕事のどこかにやりがいや意味を感じているからだと思います。誰かの人生の節目に関わる責任と重みを、苦しみながらも受け止めている。そんな自分を、少しだけ誇りに思っているのかもしれません。

誰かの生活を、支えてるという実感

相続で困っていたご高齢の女性が、「あなたに頼んでよかった」と泣きながら言ってくれたことがありました。その言葉は、今も自分の支えです。目立たないけれど、確実に誰かの役に立っている。それを実感できた瞬間だけは、「この仕事をしててよかった」と思えるんです。

手続きの向こうに「人生」が見えるとき

書類1枚の向こうには、誰かの離婚、誰かの死、誰かの始まりがある。その背景を想像すると、自然と慎重にもなるし、丁寧にもなる。それが、この仕事の本質なのかもしれません。ただの手続き屋ではなく、人生の節目に寄り添う存在でありたい。そう思うからこそ、また明日も書類に向かうのです。

がんばってる仲間の存在が、ほんの少しの支えになる

同業者の何気ない投稿に共感したり、たまに会う司法書士仲間の「しんどいよなぁ」のひと言で心が軽くなったり。がんばってるのは自分だけじゃない。そう思える瞬間が、いちばん心のバランスを保ってくれてる気がします。年に一度の「よくがんばってるよ」のひと言は、もしかすると、こうした同業者のなかにこそあるのかもしれません。

同業者の何気ないひと言に救われた日

ある日、オンラインの勉強会後の雑談で、「あの件、地味に大変でしたよね」と話しかけてくれた同業者がいました。自分しか気づいていないと思っていた苦労に、誰かが気づいていた。たったそれだけのことが、心に残りました。だから、次は自分が言おうと思うのです。「あなた、ちゃんとがんばってますよ」と。

「自分だけじゃない」と思えた瞬間

いつも「自分だけがつらい」と思ってしまう。でも実際は、誰もが表に出さずにしんどさを抱えている。そう気づけたとき、自分のがんばりも少しだけ認めてあげようと思えた。みんな、がんばってる。だから自分も、もうちょっとだけ、続けてみようと思います。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。