誰にも必要とされてない気がして苦しくなる

誰にも必要とされてない気がして苦しくなる

朝起きた瞬間から始まる「疎外感」

目が覚めて、ふと天井を見上げた瞬間に感じる虚しさ。隣に誰かがいるわけでもなく、「おはよう」と声をかけてくれる相手もいない。スマホを手に取っても、新着メッセージはなく、通知もゼロ。そんな朝を繰り返しているうちに、「自分はこの世に必要とされているのか」と疑問が胸を締めつけるようになる。家族がいれば、子どもがいれば、違ったのだろうか。そんなことを考えるけれど、ただ答えのない問いが頭を巡るだけで、今日もまた仕事の準備を始める。

目覚ましが鳴る部屋に響く無音の存在感

「ピピピッ」と鳴る目覚まし時計の音が止まった後、部屋の中に残るのは、ただの沈黙。テレビのスイッチも入れず、ラジオも聞かず、音がない空間が、自分の孤独を際立たせる。かつては一緒に暮らしていた家族もいた。結婚まで考えた相手もいた。でも、何かがかみ合わなくなり、結局は一人になった。時計の音だけが「また今日も誰のためでもない一日が始まる」と告げてくるようで、朝が一番つらい時間帯になってしまった。

誰とも交わらない朝の時間が心を重くする

仕事のある日は、外に出て人と接することもあるけれど、朝の時間は完全な孤独。スーパーに行っても無言、コンビニで買い物してもレジの「ありがとうございます」以外の言葉は交わされない。誰とも会話をしないまま午前中が終わる日もある。だからこそ、誰かから「先生、おはようございます」と声をかけられるだけで救われた気になることもある。でも、それは稀なことで、ほとんどの朝は、何かを抱えたまま、心を押し殺して始まっていく。

「おはよう」と言える相手がいないという現実

「おはよう」と自分から言える相手がいない。それがこんなに苦しいものだとは、若い頃は思わなかった。一人暮らしが自由で気楽だと信じていたあの頃、自分に返ってくる言葉の重さなんて想像もしていなかった。事務所で雇っている事務員には朝の挨拶をするけれど、どこか形式的で、深いところで心が触れ合うことはない。人間関係が希薄になった現代では、それが普通なのかもしれない。でも、「普通」であることと「楽」であることは、まったく別の話だ。

仕事で評価されても、満たされない理由

司法書士という職業は、ある意味「ありがとう」がもらいやすい仕事だと思う。登記が終わったとき、遺言の手続きがうまくいったとき、依頼者から「助かりました」と言われることがある。でも、その言葉を受け取っても、自分の心が満たされることは少ない。「感謝されてるはずなのに、なんでこんなに虚しいんだろう」と思うことが何度もある。もしかしたら、自分自身が、自分の存在を認められていないのかもしれない。

「ありがとう」がうれしいはずなのに空虚に響く

昔は、感謝の言葉一つで一日がんばれた気がする。でも今は違う。たとえば、不動産の相続登記を終えて、「助かりました、先生」と丁寧に頭を下げられても、その後に残るのは達成感よりも空虚感。クライアントにとっては一時的な感謝かもしれない。でも自分にとっては、それで今日が終わる。言ってしまえば、使い捨ての感謝。心から言ってくれる人もいる。でもそれでも「必要とされている実感」が長く続くわけじゃない。

達成感より先にくるのは、虚しさと孤独

手続きがスムーズに終わった日、達成感があるはずなのに、真っ先に来るのは「さて、これでまた一人の時間に戻るのか」という感情。仕事が終われば、誰も待っていない自宅に帰る。コンビニ弁当を買って、テレビをぼーっと眺める。そんな毎日を繰り返しているうちに、「自分って何のために頑張ってるんだろう」と疑問が浮かぶようになる。人に必要とされるために頑張っているのに、必要とされている実感がないという矛盾。

自分の役割を確認するように仕事にしがみつく

気がつけば、自分は仕事にしがみつくように働いていた。休みの日でも、何かしていないと落ち着かない。事務所に行って書類を見直したり、昔の案件を思い出して再確認したり。別に緊急性があるわけでもないのに、なぜか仕事の中に身を置いていたほうが安心する。それは、少しでも「役に立っている」と思える場所がそこしかないから。まるで、自分の存在意義を確認するために仕事に逃げ込んでいるような感覚だった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。