誰かの温もりが恋しくなるのは、きっと疲れてる証拠
忙しさに追われていると、ふとした瞬間に「誰かがそばにいてくれたらな」と思うことがある。日中は登記の締切や相談対応、役所とのやりとりで気が張っているから気づかないけれど、夜、ふと椅子に深く座った瞬間、何かがスッと抜け落ちる。そうすると、冷えた部屋の空気や、誰もいない布団の中が、やけに冷たく感じる。疲れって、体力や気力だけじゃなく、孤独も一緒に連れてくる。温もりを求めるのは、決して弱さじゃなく、ちゃんと頑張ってきた証なのかもしれない。
一人でやるには、ちょっと重たい日もある
司法書士の仕事は、基本的に「ひとりで完結する業務」が多い。黙々と書類を作って、不動産屋や銀行とやりとりして、登記を完了させる。誰かとチームで動くことは少ないし、事務員さんとも一日のうち数分話すかどうかの日もある。だからこそ、やたらと重たく感じる日がある。登記のミス、クライアントの急な変更、役所とのやりとりのズレ…たった一つの歯車の狂いで、全体が崩れそうになる。そんな時、ただ「大丈夫?」って言ってくれる存在が、どれだけ救いになるか。いないと気づかないのに、いないとしんどい。
登記簿を眺めて心がほぐれる日と、逆の日
面白いもので、登記簿が心の癒しになる日もあれば、逆に心の重りになる日もある。調子がいいときは「ああ、今日も無事終わったな」と思えるのに、疲れていると「この登記、俺が一人でやってる意味あるのか?」なんて考え始める。書類は感情を持たない。でも、それが逆に寂しさを際立たせる。誰にも頼れない、自分しか知らない書類の山。その静けさが、たまらなく孤独を連れてくる。
疲れてる時ほど、人の存在って響く
人の優しさって、余裕があるときは気づきにくい。でも、心がすり減っているときは、ちょっとした言葉や表情が深く胸にしみる。例えば、コンビニのレジで「温めますか?」って聞かれたとき、なんか泣きそうになる日がある。誰かが自分に関心を持ってくれている、それだけで救われる。疲れてるときに恋しくなるのは、豪華な食事や気の利いた会話じゃなくて、ただの温度、人の気配。何もしゃべらなくても、そばに誰かがいるだけで、だいぶ違うのだ。
仕事が終わっても、部屋は静かすぎる
夜の8時、パソコンを閉じる。今日も一日、まあまあ頑張ったなと思いながら、帰宅。事務所と自宅が同じ建物内だから、移動時間はほぼゼロ。楽と言えば楽だけど、気持ちの切り替えは難しい。部屋に入っても、テレビの音だけが響いていて、自分以外の人間の存在はどこにもない。ちょっとしたことを話せる誰かがいたら、この静けさも少しは和らぐんだろうか。
コンビニの明かりが、なぜか眩しい夜
夜にコンビニへ行くと、なんであんなに明るく感じるんだろう。中にいる店員さんや他のお客さんを見ると、自分だけがこの世界から少し浮いているような感覚になる。自分も「普通の人間」なはずなのに、社会のどこにも自分の居場所がないように思えてくる。温かい肉まんを買っても、それを分け合う誰かはいない。そんな夜が、週に何度かある。
事務員さんとの会話が、その日唯一の雑談
うちの事務員さんは真面目で優秀。仕事のやりとりはスムーズだけど、雑談はほとんどしない。というより、自分が話しかける勇気がない。だから、事務員さんとの「お疲れさまでした」が、その日唯一の誰かとの会話だったりすることがある。それでも、声をかけてもらえるだけで、少し気持ちが救われる。でも、それもまた業務の一部。本当の意味で「心がほぐれる会話」ではないんだ。
おしゃべりがしたいわけじゃない、でも誰かがいたら
別に誰かと長話したいわけじゃない。ただ、隣に誰かがいてくれて、同じ時間を過ごせたらそれでいい。仕事のことをわかってなくてもいいし、深い関係じゃなくてもいい。たとえばテレビを見ながら笑うタイミングが同じだったとか、夕飯を食べて「ちょっと味濃いね」なんて一言が交わせたら、それだけで十分だと思う。たぶん、自分が求めてるのは、愛じゃなくて「気配」なんだ。
「ひとり暮らし慣れてるでしょ?」という無理解
「一人が好きなんでしょ?」と、軽く言われることがある。でもそれは、好きというより“慣れた”だけだ。慣れたくて慣れたわけじゃない。人といることで疲れたり、気を遣いすぎたりしてきたから、結局一人が楽だと自分に言い聞かせるようになっただけ。本当は、誰かと過ごせるなら過ごしたい。でも、「一人で大丈夫そう」と言われ続けるうちに、誰にも本音を話さなくなった。
恋愛は、もう諦めてるけど諦めきれない
この歳になって、恋愛の話をするのは恥ずかしい。でも、心の奥ではまだ「誰かと一緒に生きられたら」と思っている自分がいる。仕事が一段落してふと時間ができたとき、真っ先に思うのは「この時間を誰かと過ごせたらいいのに」ってことだったりする。別に、若いカップルのように手をつなぐ必要はない。ただ、人生の帰り道を一緒に歩いてくれるような人がいたらと思う。
女性にモテなかった人生のツケ
学生時代からモテた記憶がない。真面目一辺倒で、面白味もなく、恋愛には縁がなかった。司法書士になってからも、仕事中心の生活で、気がつけば出会いの場すらなくなっていた。「女っ気がない人生」というのが、ぴったりの表現だ。別にイケメンでなくても、気の合う人がいればいいと思っていたけど、それすら叶わない。こういう人生って、ある意味“職業病”なのかもしれない。
誰かと一緒に生きるのって、そんなに難しい?
人と一緒に生きることって、どうしてこんなに難しいんだろう。別に完璧を求めているわけじゃない。ただ、お互いを尊重して、支え合って、時には笑って、時には黙っていられる関係がほしいだけなのに。仕事では信頼されるけど、プライベートになると、自分の不器用さが際立ってしまう。誰かと暮らすことって、そんなに高望みなんだろうか。
結婚相談所も婚活アプリも、何かが違う
何度か婚活アプリや相談所も試した。でも、どうしても「条件」と「プロフィール」に縛られる世界が合わなかった。こちらもつい「年齢」や「趣味」で人を見てしまうし、相手もこちらを「司法書士」という肩書きで見る。そのうち、何を話しても空回りしている気がして、結局はやめてしまった。たぶん、俺が求めてるのは「出会い」じゃなくて「積み重ね」なんだと思う。
自己紹介欄に「司法書士」と書く虚しさ
職業を書くとき、「司法書士」と正直に書く。でも、それが逆に自分を狭めている気がしてならない。相手は「しっかりしてそう」とか「安定してそう」と言うけれど、それは表面的なイメージでしかない。実際は不安定だし、孤独だし、プレッシャーも大きい。誰かと出会いたくて書いたはずのプロフィールが、自分の弱さを隠す盾になってしまってる。そう思うと、ますます自信がなくなる。