書類は正直だけど、人間の気持ちは読めない
書類は黙って待っていてくれる
司法書士の仕事の大半は「書類との戦い」だ。登記申請書、委任状、契約書…。どれも正確性が求められるけれど、ありがたいことに、こっちの都合で進められる。誰にも文句は言われないし、提出期限に間に合えば、誰も怒らない。書類は「黙って待っていてくれる存在」だ。時には深夜まで作業することもあるけれど、相手が紙なら無言で付き合ってくれる。そこには感情も圧もない。だから、ある意味で一番信頼できる「仕事仲間」なのかもしれない。
いつでも言うことを聞いてくれる書類たち
書類は反論しない。こちらが「こうだ」と書けば、その通りにしか存在しない。委任状に名前を書いてもらい、添付書類を揃えれば、法務局も受け入れてくれる。もちろん記載ミスや添付漏れがあれば戻ってくるが、それも機械的な反応だ。先日、相続登記の依頼で書類を一式揃えた際、被相続人の名前が戸籍と一致しておらず修正になったが、それもこちらの確認不足。書類は淡々と教えてくれる。「ここが違うよ」と。人のように感情を交えて非難することはない。
ミスがあっても怒られない安心感
人間相手だと、ミスがあれば「なんで?」とか「ちゃんとやってよ」と言われる。でも書類は違う。訂正すればそれで済む。もちろん法務局の担当者から電話で「補正してください」と言われることもあるが、それは決して怒鳴り声ではない。そう考えると、ミスをしても責められない相手と仕事するのは、精神衛生上ずいぶん楽だ。責任を取るのは自分だけど、誰かの感情に左右されないのは助かる。書類との仕事は、一種の癒しなのかもしれない。
訂正印を押せば済む世界のありがたさ
誤字脱字や日付の間違いも、訂正印を押せば済む。しかもそれが「正式な修正」として認められるのが、司法書士の世界だ。人間関係のように、謝っても「許せない」と言われることはない。先日も登記原因証明情報に記載ミスがあり、あわてて依頼人に訂正印をもらいに行ったが、それさえできれば問題なかった。こういう明確なルールがあるから、書類との付き合いはストレスが少ない。人間関係も、訂正印ひとつで解決できればいいのに…と思ってしまう。
でも、人はそうはいかない
人間相手のやり取りは、まったく別の世界だ。書類と違って、感情が絡む。言っていることと本音が違うなんて日常茶飯事だし、「なんとなく納得できない」という理由で話が進まないこともある。司法書士という職業は「法律家」としての側面だけではなく、実は「人間関係の調整役」としての顔も求められる。そこがしんどいし、やりがいでもある…のかもしれないが、正直、しんどさの方が勝ってる。
言葉の裏にある「本音」に気づけない日
相談に来た依頼人が「お任せします」と言ってくれると、一見スムーズに感じる。でも、あとになって「そんなつもりじゃなかった」と言われることがある。あの「お任せします」は、本当に任せたかったのか?それとも遠慮や諦めから出た言葉だったのか?…そういうことを考え出すと、きりがない。書類のように文字通りに受け取れればいいのに、人間の言葉は文脈と感情と過去の記憶が複雑に絡み合っている。正直、読解に時間がかかる。
相談者の機嫌に振り回される朝
朝イチで電話が鳴る。「昨日お願いした件、どうなってますか?」と少し苛立った声。まだ期限前で、予定通り動いているのに、感情的な言い方をされるとこちらも余裕がなくなる。怒っているのか、不安なのか、単に急ぎたいだけなのか。それすら判断しなければいけない。機嫌の悪さに反応して、こちらもついトーンが荒くなると、後で後悔する。人間関係は「言い方ひとつ」で崩れる。こういう日は、書類だけ見て過ごしたくなる。
感情に法的根拠はない、でも無視もできない
依頼人の怒りや不満には、法的な根拠がないことも多い。でも無視はできない。怒らせたら、次は来てくれない。紹介もされない。法的に正しくても、相手の「気持ち」に配慮しなければいけない場面が本当に多い。ときどき、自分がやっているのは司法書士というより、接客業なんじゃないかと思うことさえある。だからこそ、「正しさ」と「納得感」のバランスが難しい。その不安定さに、疲れてしまうことがある。
「正しいこと」が通じないもどかしさ
法律的に間違っていないことを説明しても、「でもそれじゃ納得できない」と言われることがある。たとえば、相続人間で感情的な対立があると、誰かが損してるように見えてしまうのだろう。「兄だけ得しているように感じる」と言われても、登記の構造上は何も問題ない。でも「感じる」ことがネックになる。論理より感情が前に出る世界では、どれだけ説明しても「通じない」もどかしさがある。
法律的には間違っていない、それなのに納得されない
「兄が全部やるって言ったんです」と妹さんが言う。「でも委任状もらってるし、合意もあるから問題ありません」と私が言う。でも納得しない。「気持ちの問題なんです」と言われたら、それ以上言いようがない。間違っていないことを説明するたびに、感情の壁にぶつかる。このあたり、書類だけ扱っていればぶつからなかった悩みだ。人間関係はやっぱり、予測不能すぎる。
理屈より「気持ち」に重きを置かれる現場
登記は正確さが命だけれど、依頼人が求めているのは「安心」や「納得」だったりする。書類の完成度より、「ちゃんと寄り添ってくれたか」が評価基準になることもある。「きちんと説明しました」は通用しない。「ちゃんと話を聞いてくれたか?」が重要。だから、つい書類よりも、人の機嫌を優先してしまうことがある。正直、虚しくなる日もある。でも、それも仕事だと思っている。
事務所経営は、法務より人間関係が大変
開業してから十数年、思っていたよりも「人間関係」に苦労してきた気がする。登記申請や法務局とのやり取りよりも、依頼人や事務員との関係づくりのほうがはるかに難しい。特に少人数事務所では、お互いの空気が重なる。法律だけでは解決しないことのほうが、実は多いのだと痛感する。仕事の本質は「人」だと頭では分かっているけれど、たまには書類だけを相手にしたい日もある。
事務員との距離感、意外と神経使う
「人を雇う」というのは責任が伴う。でも一方で、毎日の言葉のかけ方ひとつに気を遣う日々。ちょっとした注意も、言い方によっては「パワハラ」と受け取られるかもしれない時代だ。こちらが忙しくて余裕がないときほど、言葉がきつくなりがち。そういうときに限って、あとから後悔する。法律のように明確なルールがないから、余計に難しい。書類のほうが、まだ付き合いやすいとすら思う。
「いい人」でいると損をする気がしてくる
依頼人に対しても、事務員に対しても、つい「いい人」でいようとしてしまう。でも、いい人でいると、どこかで甘く見られる。要求がエスカレートしてくることもあるし、理不尽なクレームに黙って耐えることもある。そういうとき、「自分は何を守っているんだろう」と思うことがある。仕事のため、人間関係のため、でも自分自身がすり減っていく感覚は否めない。「書類は裏切らない」なんて言葉が、冗談じゃなく本音になっていく。