言いたかったのに、言えなかった一言
司法書士という仕事は言葉の扱いに慎重でなければならない。けれど、そんな自分でも時折「なんであの一言を言えなかったんだろう」と夜中に布団の中で思い返すことがある。依頼人とのやり取り、役所との調整、法務局との対応——どれも言葉で成り立っているはずなのに、本当に言いたかったことは喉の奥でひっかかって、吐き出せないまま残ってしまうことがある。あの一言さえ出せていれば…そう思う場面が、年々増えてきた。
「あの時こう言っておけば…」という後悔
ある日、相続登記の依頼で来られたお客様。書類に不備があって、手続きが予定より1週間遅れることになった。説明したが納得いただけず、口調も荒くなっていった。心の中では「その書類、最初にこちらが案内した通りに用意してくれていれば」と言いたかった。でも、結局言えなかった。言ってしまえば関係が壊れる気がしたから。結果、ひたすら謝って終わった。夜になってから「一言くらい、自分の立場を伝えても良かったんじゃないか」と悶々とした。
飲み込んだ言葉が心に澱のように残る
言わなかった言葉は、時間が経てば消えると思っていた。でも実際は違った。残り続ける。胸の奥のどこかにずっと沈殿していて、ふとした瞬間に浮かび上がる。「あの時、ああ言っていれば」「もっとはっきり伝えておけば」そんな後悔の気泡が、毎日の業務の隙間に入り込んでくる。
顧客対応の場面で感じた理不尽と葛藤
クレームを受けたとき、「司法書士なんて誰でもできるんでしょ」と言われたことがある。何度も説明し、専門知識も伝えてきたつもりだったけど、その一言に全てを否定されたようでショックだった。言い返したかった。でも、事務所の看板や信用を考えると、やっぱり何も言えなかった。自分の中では「理不尽だ」という気持ちが爆発しそうだったが、結局は笑って「」と頭を下げた。
「いい人」でい続ける疲れと虚しさ
いつからか「いい人」でいることが当たり前になっていた。無理してでも相手に合わせ、笑顔で応対する。でも、正直しんどい。「優しいですね」なんて言われても、それは本当の自分ではない気がしてくる。「このままじゃ壊れるかもしれない」と思った日もあった。だけど、じゃあ誰に助けを求めればいい? 誰かに本音を吐いても「頑張ってますね」と返されるだけ。そんなの、欲しい言葉じゃない。
地方の司法書士として、孤独との付き合い方
地方で一人事務所をやっていると、相談できる同業者も少ない。友人もみんな別の世界にいる。雑談すら成り立たない日もある。「司法書士って、何してる人なの?」という質問に答えるのも、もう疲れてしまった。気がつけば、誰とも深い会話をしないまま、1日が終わっている。
誰とも共有できない専門職のつらさ
司法書士の仕事って、外から見ると単なる書類屋さんに見える。でも、実際は判断や責任、細かい確認作業が山のようにある。しかもそれがミスになれば全部自分の責任になる。そんな重さを、誰かに話しても理解されにくい。自分で選んだ仕事だけど、たまに「もっと気楽に働ける職業だったら」と思う。
話しかけても、話が通じないことの虚無
地元の知り合いと飲みに行っても、「役所の手続きってそんなに大変なんだ?」と驚かれる。そりゃそうだ、自分だって司法書士になる前は分かってなかった。「登記ってさ、ネットでできないの?」とか言われると、もう何も言いたくなくなる。話をするほど孤独になる。そんな気がして、最近は誰とも飲みに行かなくなった。
「それって司法書士の仕事なの?」と何度も聞かれた
何度も聞かれた。「それって、司法書士の仕事なんですか?」って。境界線があいまいな仕事も多いから、説明は難しい。でも、その度に自分の存在意義を試されているようで、ちょっとずつ心が削れていく。「それは税理士じゃないの?」「それって行政書士?」……いやいや、ちゃんと法律の範囲でやってるんですって。何度もそう言いたくなったけど、言ったところで納得はされない。
一人事務所で感じる、限界と矛盾
事務所には事務員が一人だけ。ありがたいけれど、全部任せるのは申し訳なくて、結局自分で抱えてしまう。効率は悪いし、ストレスもたまる。それでも「人を増やす余裕はないしな」と思い込んで、また自分を追い込んでいく。そういう矛盾が、毎日のように渦巻いている。
事務員に頼みたいけど、気を使ってしまう
「ちょっとこれお願いできますか?」って言うのに、ものすごくエネルギーが要る。彼女にも生活があるし、負担をかけたくない。でも、頼まなければ回らない仕事もある。結局中途半端に手を出して、自分で抱え込んでいる。頼ることが苦手な性格が、こんなところでも邪魔をしている。
「雇っている」と「支えられている」の間で揺れる心
事務員を雇っているとはいえ、感覚的には「支えられている」方が大きい。時には彼女の一言に救われることもあるし、彼女の体調が悪い日はこっちも不安になる。だけど、それを表に出すわけにもいかず、あくまで「雇用主」として振る舞わなければならない。距離感の取り方に、未だに悩んでいる。
言葉にできないから、書いている
口に出すのは苦手でも、書くのはまだなんとかなる。日報、手帳、メモ帳、そしてこのコラム。書いていると少しだけ、喉につかえた一言が外に出る気がする。誰かに届くわけじゃなくても、自分の中で整理できることがある。それだけでも、ちょっとは楽になれる。
日報やメモに滲む、心の叫び
「今日はしんどかった」「また理不尽なクレーム」「誰もわかってくれない」——そんなことばかり書いてある日報。でも、誰に見せるわけでもないし、自由に吐き出せる場所だと思っている。何年か経って読み返すと、「あの頃よく頑張ってたな」と思えるかもしれない。いや、そう思えたらいいなと思ってる。
SNSに吐き出せない理由
SNSは便利だけど、疲れる。誰が見ているかわからないから、結局言葉を選んでしまう。「愚痴ばかりだな」と思われたくないし、なにより「元気そうですね」と言われるのが一番つらい。本当は元気じゃないんだよ。だからSNSには何も書けなくなった。だからこそ、こうして文章にして、自分の居場所を作っているのかもしれない。
「見られている」という意識の息苦しさ
自分の発言が「誰かの目」に晒されていると思うと、それだけで言葉が詰まってしまう。文章って、本当は自由なはずなのに。気づけば、「見られること」を前提に文章を書いている。それじゃあ本音なんて出てこない。本音を書くって、こんなにも難しいのかと、今さらながら思う。
喉につかえた言葉が、誰かの心に届く日
言えなかった一言たちは、ずっと自分の中でくすぶっている。でも、もしかしたらこうして書き出した言葉が、誰かにとっての救いになることもあるのかもしれない。そう思えるようになったのは、年を取ったからだろうか。独身で、モテなくて、愚痴ばかりの自分でも、誰かの役に立てるなら、それでいい気もしている。
自分の弱さが、他人を支える力になるかもしれない
かつての自分がそうだったように、誰かの弱音に救われることはある。だから、自分の弱さを隠す必要はないのかもしれない。「しんどい」「疲れた」「もう限界」——そんな言葉も、誰かが「自分だけじゃないんだ」と思えるきっかけになる。だったら、弱い自分のままで、この仕事を続けていくのも、悪くない。
独身でモテないけれど、それでも前を向く
結婚もしていないし、彼女もいないし、正直モテたことなんてない。でも、仕事に向き合って、人の役に立とうとしている。それだけは誇れる。「いい人止まり」と言われても、それでもいい。誰かの登記が無事に終わって、少しでも安心できたなら、それが自分の存在意義だと思える。喉につかえた言葉を、こうして文章に変えていくことで、今日もまた、ひとつ前に進める。