「終わりました」の一言がもたらす解放感
「終わりました」と誰かに伝えるとき、あるいは自分の中で呟くとき、ふっと肩の力が抜けることがある。案件がひと段落したとき、書類を提出し終えたとき、あるいは登記が完了したメールを確認した瞬間。忙しい日々の中で、この「終わり」を迎えること自体がご褒美のようなもので、気づけば無意識に深呼吸をしている。小さな達成感ではあるけれど、それは確かに心の支えになる。司法書士という仕事柄、ひとつひとつの案件が重くのしかかってくるだけに、「終わりました」の一言が心の平穏をもたらす瞬間でもある。
山場を越えた瞬間に感じる深いため息
何かひとつ終えるたび、決まって深く息を吐いている。まるでそれまで呼吸を止めていたかのように。ひとつの登記案件が無事に完了したその瞬間、ふっと脱力するあの感覚。若い頃はそれすら気づかなかったが、今では毎回実感する。「あぁ、終わった」と。思えば、何日も悩んで、確認して、チェックして、事務員さんとも相談して、ようやくたどり着いた終点だ。安堵感というよりは、ただ静かに、「終わったな」と受け止めるだけ。でもその静けさこそが、自分にとってのご褒美なのかもしれない。
終わりの合図に安心する理由とは
「終わりました」という言葉に救われるのは、それが不確実な日々における、数少ない確実な“区切り”だからだと思う。書類の確認も、登記の進行も、外部とのやりとりも、すべてが曖昧な不安の中にある。そんな中で、「完了」という通知が来ることは、まるで迷子が道しるべを見つけたような感覚に近い。ようやく安心して次に進める、そんな確信をくれる言葉。それが「終わりました」だ。ただし、それは同時に“次”が始まる合図でもある。
重圧からの解放、身体が先に反応する
頭では理解していないのに、身体が先に「終わった」と反応する。背中の凝りがほぐれ、目の奥の重さが消える。メールを確認し、登記完了の報告をクライアントに送った直後、ふと椅子に深く座り直している自分に気づく。身体がその安堵を喜んでいるのだろう。これは職業病かもしれないが、日常的に“緊張”を積み重ねていると、こういう瞬間の開放感がたまらなく沁みるのだ。とはいえ、次の電話が鳴れば、また緊張が戻るのだけれど。
しかしその直後に押し寄せる漠然とした不安
安心したと思った瞬間に、次の波が押し寄せてくる。不安だ。終わったのに、不安。なぜか。ミスはなかったか、見落としはなかったか、クレームは来ないか。いつも頭の中でグルグル回り続ける。終わったと自分では思っていても、完全な“終わり”なんてものは、この仕事には存在しないのだと痛感する。
「本当に終わったのか?」という疑念
登記完了の通知を見た後も、どこか落ち着かない。メールは本物か?内容は間違っていないか?自分の送った書類に不備はなかったか?まるで誰かに「終わってないよ」と言われるのを待っているような、そんな心持ち。過去のトラブルや修正経験が、どうしても脳裏をよぎる。安心したいのに、安心できない。これが司法書士の性なのか、それとも自分の性格のせいなのか。
確認メールを何度も見返す癖
「終わりました」とメールで届いても、どうしても1回で安心できない。何度もメールを開いては、日付や文言、担当者名を確認する。そのうち印刷までしてチェックリストに赤丸をつけて、自分に「終わったよ」と言い聞かせる。事務員に確認してもらっても、最終的には自分の目で見ないと安心できない。自分の責任で仕事をしている以上、この癖はもう治らないのかもしれない。
電話が鳴るたびに心臓が跳ねる感覚
やっと落ち着いたと思った瞬間に電話が鳴ると、心臓がびくっとする。「もしかして、あの件か?」と身構える癖がついてしまっている。特に、完了報告をした数時間後の電話は要注意。内容が別件でも、一瞬で全神経が張り詰める。電話を取る手が震えたこともある。大げさに聞こえるかもしれないけれど、それだけ“終わったはず”という言葉がもろくて危ういのだ。
達成感の裏にある“次”への恐怖
終わった案件はひとまず片付いた。けれど、その先にはまた次がある。それも決して楽な案件ばかりではない。むしろ、終わった直後だからこそ、“次”がどれほど重く感じるかに気づく。安心と同時に、新たなプレッシャーが生まれてしまうのだ。
終わった仕事よりも、これからの依頼に怯える
終わったからといって、次の依頼がすぐに来るとは限らない。だから不安になる。依頼が来たら来たで、またプレッシャーに潰されそうになるが、来なければ来ないで「もう終わりか」と焦ってしまう。まるで自転車操業のような日々。心が休まるタイミングがなかなかない。今日の仕事が終わっても、明日の心配が頭をよぎる。ずっとそんな繰り返し。
予定表の空白が落ち着かない理由
Googleカレンダーを開いたとき、予定のない日が目に入ると心がざわつく。「これは休み」ではなく「依頼がない」と感じてしまう自分がいる。昔は「やった、自由な日だ」と思えていたのに、今では「仕事が途切れた」と感じるようになってしまった。そういう自分が嫌だと思いながら、でもそれが現実なのだと認めざるを得ない。
安堵と不安が交差する夜の独り言
すべてを終えて帰宅し、静かな部屋で一息つく。そういう時間にふとこぼれるのが、「終わったな……でもなぁ」という独り言。誰に聞かれるでもないのに、言わずにはいられない。安心と不安が交互に揺れながら、眠りに落ちる準備をしていく。
「もうちょっと楽にならないかな」と呟く夜
仕事が終わった夜、湯船につかりながら「もう少し楽にやれたらな」と呟く。誰かが助けてくれれば、誰かが肩を持ってくれれば、そんな想像をしてしまう。でも現実には、自分が選んだこの道を、自分の足で歩き続けるしかない。だからこそ、その小さな呟きが、かえって自分を支えてくれているのかもしれない。
一人で飲む缶ビールと妙な自己肯定
帰宅後、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ひとり乾杯する夜がある。「今日もようやったよ」と、誰に言うでもなくつぶやく。しょぼくれた自画自賛だけど、それでも少しだけ救われる気がする。そんな夜の積み重ねが、また明日への足がかりになっていく。
それでもまた「終わりました」に向かって進む理由
結局のところ、どれだけ不安があっても、どれだけ愚痴をこぼしても、自分はまた次の案件に取りかかる。そしてまた「終わりました」と言える瞬間を目指している。その小さな終わりがあるからこそ、なんとかやっていけるのだと思う。
安堵を求めて、不安を背負って
安堵がほしい。ほんの少しでもいいから、「よかった」と思える瞬間が欲しい。そのために、不安を背負ってでも前に進むのだろう。この繰り返しが、自分という司法書士のあり方なのかもしれない。
司法書士としての責任と、自分自身の在り方
どんなに小さな案件でも、そのひとつひとつに人生がかかっている人がいる。その重さを背負っているからこそ、不安も安堵も生まれる。自分が誰かの「安心」の一部になれているのだと信じたい。だからこそ、「終わりました」の一言を、これからも大切にしていきたい。