「がんばってるね」の一言が、今日はやけに刺さった

「がんばってるね」の一言が、今日はやけに刺さった

ひと言が心に染みる日がある

いつもなら聞き流せるような言葉が、なぜか今日は胸に刺さる。そんな日がある。仕事の帰り道、コンビニのレジで「おつかれさまです」と言われただけで泣きそうになるような夜。司法書士という仕事は「がんばって当たり前」で、ミスがあれば責められ、うまくやっても褒められない。そんな日常の中で、「がんばってるね」とか「いつもありがとう」といった、何気ない言葉が心に沁みるのは、自分でも気づかないうちに疲れが限界に近づいている証拠だ。

疲れが溜まりすぎて、自分でも気づけなくなっていた

朝起きて、食パンをくわえて事務所に向かう。書類の山を前にしてコーヒーを流し込んで、夕方までにいくつかの登記を片付ける。気づけば夜になっていて、疲れてるかどうかも分からない。こうして書いてみると、自分でもちょっとひどいと思うが、そんな生活がもう何年も続いている。疲れてる自覚がないというより、疲れてるのが「普通」になってしまっていたのかもしれない。

「大丈夫?」より「がんばってるね」が響いた

ある日、久しぶりに会った同期の司法書士が、ふと「おまえ、がんばってるなあ」と言ってくれた。その瞬間、胸が熱くなった。「大丈夫?」って聞かれると、つい「大丈夫だよ」と答えてしまう。でも「がんばってるね」は、こっちが返す必要もなく、ただ受け取るだけでいい。あの一言には、評価でもなく、アドバイスでもなく、ただ“存在を見てくれている”という感じがあった。

励ましじゃなく、ただ認めてほしかっただけかもしれない

たぶん僕が欲しかったのは、もっとがんばれっていう励ましじゃない。ただ、日々の小さな努力を「見てたよ」って言ってほしかっただけだ。肩の力を抜ける瞬間が、たった一言で生まれるなんて思ってなかった。気づけば、「ああ、誰かにちゃんと見られてたんだな」って、少し泣きそうになっていた。誰かに認められるって、やっぱり大事だ。

司法書士って、結局“孤独業”だと思う

司法書士は個人事業主であることが多く、業務も黙々とデスクに向かって完結する。相談を受ける側ではあっても、相談する相手がいない。愚痴ることもできず、ただ一人、クライアントの問題を処理していく。そんな日々を繰り返していると、だんだんと自分が「誰にも頼れない存在」になっているような錯覚に陥る。

相談されるばかりで、こっちが誰にも相談できない

「先生、ちょっと聞いてください」とか「これ大丈夫ですよね?」と日々相談を受ける。もちろんそれが仕事だ。でも、じゃあ自分が悩んだときに誰かに「ちょっと聞いてよ」と言えるかというと、そんな相手がいない。相談を受ける立場というのは、案外孤独だ。弱音を吐いた瞬間に信用を失うような気がして、つい黙ってしまうのだ。

「専門職」という名前が、自分を不器用にしている

司法書士という肩書きが、時に自分の素直な言葉を封じ込めてしまう。「しっかりしてるはず」「知識がある人」という先入観があるから、無理してでも知ったかぶりをしてしまう。ほんとは分からないことや不安なこともあるのに、専門職という仮面がそれを認めさせてくれない。不器用だなあと思いつつも、その仮面を外すのはなかなか難しい。

事務員との距離感も、実はむずかしい

ありがたいことに、今は一人の事務員さんに助けられている。でも、雇う側と雇われる側という関係性は、どうしても「対等な愚痴の言い合い」にはなりづらい。感謝してるのに、それをうまく伝えるタイミングがなくて、つい「早く処理して」なんて言い方になってしまう自分がいる。

気を遣わせたくないけど、ついイラついてしまう

忙しくなると、言葉も荒くなる。分かってるのに止められない。書類の確認が遅れていたり、ミスがあったりすると、「なんで?」と詰めた口調になる。後で後悔する。でもそれを素直に謝るのも難しくて、「まあいいから次いこう」とごまかしてしまう。大人って、ほんと面倒くさい。

感謝してるのに、余裕がないと伝えられない

「助かってます」って本当は毎日言いたい。でも言わない日が続くと、だんだん照れくさくなって言えなくなる。仕事が落ち着いたときにようやく「いつもありがとう」と言ったら、「急にどうしたんですか?」と笑われた。気づいてるんだろうなあ、僕が空回りしてること。

「がんばってる」って、自分で言えたら楽なんだけど

自分に対して「よくやってるよ」と言えれば、少しは救われるのかもしれない。でも、なんとなくそれができない。自分を甘やかすことに罪悪感を感じてしまうのは、たぶんこの仕事に就いてからだ。ミスが許されない、責任が重い、だから自己評価もつい厳しくなる。

誰かに認めてもらわないと折れそうな日がある

自分で自分を褒められないから、誰かからの一言にすがりたくなる。「がんばってるね」と言ってくれたあの友人の言葉が、数日たった今でもまだ心に残っている。それくらい、僕は今、誰かに認めてほしかったんだと思う。

仕事はある、でも心がついてこない

ありがたいことに、仕事はある。でも、それだけでは足りない日もある。机の上は書類で埋まっていても、心は空っぽだったりする。そんなときに誰かの何気ない言葉が、ぽつんと心に灯をともしてくれる。別に大きなことじゃなくていい。ただ、誰かが見ててくれたら、それでいい。

共感されるだけで救われることもある

「がんばってるね」は、共感の言葉だ。評価や指導じゃなく、ただ「見てるよ」「知ってるよ」というメッセージ。その言葉に救われる日があるのは、きっとみんな同じだと思う。だから僕は、これからも誰かのがんばりを、ささやかでも言葉にして伝えていきたい。

何もしてくれなくても、「わかるよ」で十分だったりする

悩んでるとき、「それ大変だね」とか「わかるよ」と言われるだけで、ふっと気が軽くなる。アドバイスも励ましもいらない。ただ「共感」が欲しいだけのときがある。司法書士という立場を超えて、一人の人間として、そんな言葉をもらえることのありがたさを、最近になってようやく理解できた。

同業者の一言が、想像以上に効く

同じ立場にいるからこそ、分かり合える苦労がある。同業者の「俺もそうだよ」という一言が、どれほど励みになるか。同じ場所で頑張っている人の存在は、見えないけれど心強い。今こうして記事を書いてるのも、そんな誰かに届けばという気持ちがあるからだ。

だから僕は、あえて「がんばってるね」を言うことにした

自分が言われて嬉しかったから、今度は僕が言う側になりたい。クライアントにも、同業の仲間にも、事務員さんにも。ほんの一言でいい。努力を見てるよ、って伝えることで、少しでも誰かが明日を迎える力になってくれたらと思う。

同じように苦しんでる誰かに届いてほしい

この仕事は孤独で、評価もされにくくて、疲れる。だけど、同じようにがんばってる人はどこかにいる。僕と同じように、「がんばってるね」のひと言に救われる人がいるなら、今日の記事がその人の心に届けば、それだけで書いた意味がある。

励ましじゃなく、“見てるよ”の意味を込めて

「がんばってるね」って、安易な励ましじゃない。ただ、相手の存在を見ているというサイン。それだけで救われる人がいる。だから今日も、誰かの努力に目を向けようと思う。僕自身がそうされたように。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。