心が追いつかない日々のなかで
最近、自分でも驚くほど感情を動かす余裕がありません。朝起きて、即メールチェック。次に予定確認。すぐに登記の準備や顧客対応、事務員への指示。そして気づけば夜。夕飯はコンビニ、風呂に入るのも面倒。そんな生活が当たり前になっていて、「寂しいな」と思う時間すら持てていないのが現実です。忙しいことはありがたいことだと頭ではわかっているけれど、心がついてこない日が増えています。
「寂しい」と思う間もなく一日が終わる
若い頃は、「今日は誰とも話さなかったな」と思って、急に寂しさに襲われることもありました。でも今は違います。誰とも話さなくても、それにすら気づかない。寂しさにすら鈍くなっている自分に気づいたとき、逆に怖くなります。「あれ、オレって今、生きてるんだよな?」と確認するような感覚。気づけば、感情を感じること自体が贅沢になっているのかもしれません。
感情を切り離して仕事に向かう癖
「業務に感情を持ち込まない」。これはある意味で必要なスタンスだと思ってきました。感情を出しすぎれば依頼者に影響を与えるし、冷静でいることが専門職としての責任でもある。でも、長年そういうふうにやってきた結果、自分の中の感情の回路が少しずつ閉じていった気がするんです。嬉しい、楽しい、悲しい、そういう普通の反応を置き去りにして、ひたすら作業に没頭する日々。どこかで折り合いをつけないと、心が壊れる気がしてなりません。
業務をこなすロボットのような自分
たとえば、登記の申請書を淡々と作成しているとき、「この作業って何百回目だろう」と思うことがあります。新しいことなんてほとんどなくて、形式通り、スピード勝負。人間じゃなくてもできるかもしれない。そんなことを思ってしまう自分がいて、でもそれを否定する元気もない。まるでロボットのように手を動かし、書類を揃え、提出する。効率はいい。でも、生きてる実感がない。そのギャップが、じわじわと自分を削っていくのです。
依頼があるだけありがたい、でも限界
仕事があるというのは本当にありがたいことです。地方で司法書士をやっていて、仕事が減っているという声も多い中、こうして依頼が来るだけで恵まれているのかもしれません。でも、それでも「ありがたさ」と「限界」は別物なんです。忙しさに振り回されて、自分の生活も感情も犠牲にして、それでも「まだやれるはずだ」と自分を追い込んでしまう。そんな働き方、いつまで続くのか、正直わかりません。
「忙しい=幸せ」とは限らない
よく「忙しいのは幸せなことだよ」と言われます。たしかに、暇よりはマシかもしれない。でも、それは「心が元気なうちだけ」の話じゃないかと思うんです。忙しいことが当たり前になって、それ以外の価値観を忘れそうになる。友達とも疎遠になり、趣味もやる気が起きず、ただ働いて終わる毎日。「これが自分の人生だったっけ?」と思う瞬間が増えてきました。忙しさの中で、自分の「幸せ」の定義を失っているのかもしれません。
誰にも頼れない立場の重さ
事務員は一人だけ。彼女もよくやってくれていますが、最終的な責任はすべて私にあります。ミスがあれば信用を失う。トラブルがあれば私が謝る。そんな当たり前のことが、日々の重圧になっています。「誰かに甘えたい」と思っても、誰もいないし、弱音を吐いたところで何も変わらない。だったら黙って働くしかない。そんな思考が習慣になってしまうと、もう抜け出せません。孤独とは違う「閉塞感」がずっとまとわりついています。
孤独は感じないが、どこか空っぽ
「孤独で寂しい」と思っていた頃は、まだ感情が残っていたんだと思います。でも今は、もうそういう感覚すら薄れてきた。「ああ、今日も無事終わったな」と安堵はするけど、何も感じない。達成感も、虚しさも、ない。ただ、空っぽなまま1日が終わっていく。この感覚を言葉にするのは難しいけれど、「何かが足りない」とだけは確実にわかるんです。
忙しさで麻痺する感情
本当に心が忙しさに慣れてしまうと、感情って不思議と動かなくなるんです。うれしいことがあっても反応が薄くなるし、辛いことがあっても「そういうもの」と流してしまう。これは大人になった証かもしれないけど、逆に「生きてる意味」みたいなものがどんどん霞んでいくんです。感情がないまま日々を繰り返していると、人生そのものに温度がなくなっていくような気がしています。
「一人の寂しさ」に気づけないほどの多忙
昔は、仕事終わりに一人で飲みに行って、「寂しいな」って感じる時間もありました。でも、今はそういう時間もない。寂しいと思うためには、少しでも余白が必要なんですよね。今はその余白すらない。やることが詰まりすぎて、感情が入り込む隙がどこにもない。これが「孤独じゃないけど空っぽ」っていう感覚の正体なんだと思います。
ふと止まった瞬間にくる虚無感
どんなに忙しくしていても、電車の中や信号待ちの瞬間に、急に虚しさが襲ってくることがあります。「このままでいいのかな」「誰かと一緒にいたかったな」そんな思いがよぎる。でも、家に帰ればそんな感情もどこかへ行ってしまう。あまりにも現実が迫ってきて、それどころじゃないからです。だからこそ、その「ふとした瞬間」が怖い。無意識に心の奥底が叫んでいるのかもしれません。
人と話すのは仕事だけ、という現実
私の1日の会話の8割は、業務連絡です。「登記簿取って」「印鑑証明が足りません」「納期はいつですか?」それ以外の会話って、ほとんどないんですよ。プライベートで誰かと話すことが減って、雑談も苦手になりました。たまに話しかけられても、言葉が出てこない。そんな自分が情けなくて、また黙ってしまうんです。
優しさの行き場がない日常
私は自分で言うのもなんですが、人には結構優しく接する方だと思っています。でも、その優しさを誰かに向ける機会が少なすぎる。家族も遠いし、恋人もいないし、友達とは疎遠。優しさって、発揮する相手がいないと、ただの無力感になります。「こんなに気を使っても、誰にも届かないんだな」と思う夜が増えました。
会話のない夜、ため息ばかり
仕事を終えて家に帰ると、無言の時間が始まります。テレビもつけず、スマホも適当にスクロールするだけ。誰とも会話せず、一日が終わっていく。誰かに「今日どうだった?」と聞かれたい。でも、そんな人もいない。「寂しい」と言えたら少しは楽になるのかもしれない。でもそれすら言えないまま、ため息だけが増えていきます。
この働き方に希望はあるのか
このままの生活を続けていて、本当に幸せになれるのか。正直、自分でもわかりません。ただ一つだけ思うのは、「今感じていることを、無視してはいけない」ということ。司法書士という仕事が好きで始めたのに、その仕事に心を奪われてしまっては意味がない。少しでも、自分を取り戻す方法を考えなければならない時期に来ているのかもしれません。
「やりがい」と「消耗」は紙一重
誰かの役に立てている実感があるのは、司法書士という仕事の醍醐味です。でも、それがそのまま「やりがい」にはならない。役に立てば立つほど、消耗も激しい。良い仕事をすれば、次の依頼が来る。その繰り返しに追われて、自分の生活はどんどん後回しになる。やりがいを感じたときほど、自分を守る術を身につけないと、燃え尽きるだけです。
好きで始めたはずなのに
司法書士になったのは、「人の役に立ちたい」という思いからでした。でも今は、「人に追い詰められている」と感じることすらある。依頼者の期待、期限のプレッシャー、行政とのやり取り。そのすべてが、かつての夢をすり減らしていくような感覚。好きだったはずなのに、なんでこんなに苦しいんだろう。そう思う夜が、増えてしまいました。
頼られる重圧と嬉しさのジレンマ
頼られることは嬉しいです。でも、同時に怖さもあります。「この人の人生が、自分の判断にかかっている」そんなプレッシャーは、想像以上に重たい。だからこそ、誰かに「頼られる自分」を演じ続けなければならない。それが崩れたとき、自分も一緒に壊れてしまうんじゃないか。そう思ってしまうから、今日も無理して笑うのです。
少しだけでも、自分を取り戻す工夫
全部を変えることは難しい。でも、少しの工夫で心の疲れを和らげることはできます。たとえば、寝る前に好きな音楽を聴く、日記をつける、ほんの5分だけでも空を見上げる。そんな小さな習慣が、心のバランスを取り戻す第一歩になる気がします。司法書士も人間です。自分をないがしろにしない働き方、少しずつでも目指していきたいと思っています。
一人時間の質を上げる小さな習慣
最近は、夜に小説を一章だけ読むようにしています。忙しい中でも、「自分の時間」があると感じるだけで、少し救われる気がするんです。カフェに行って、わざと少し高いコーヒーを飲むのもいい。「自分を大事にする」という感覚を忘れないようにするだけで、明日の自分がほんの少し変わる気がしています。
愚痴を吐ける場所を持つことの大切さ
何より大事なのは、「誰かに愚痴を聞いてもらうこと」だと思います。完璧じゃなくていい。泣き言を言ってもいい。ただ、受け止めてくれる相手がいるだけで、気持ちは全然違う。私は最近、昔の同期に定期的に電話するようにしています。たわいもない話が、心のガス抜きになるんです。「寂しい」と言えない夜でも、「疲れた」と言える場所があれば、まだ頑張れる。そう思っています。