意味なんてなくていい。ただ誰かと話したかっただけ
雑談なんて、時間のムダだと思っていた頃の話
司法書士という仕事をしていると、分刻みのスケジュールに追われる日々になる。登記の申請、法務局への連絡、クライアントとの対応……「雑談してるヒマなんてあるか」と思っていた。とくに事務所で一人きりになってからは、会話すら「効率」を重視するようになった。たわいない話をする時間があるなら、ひとつでも書類を片付けたい。そう思っていた。しかし、それは後になって、ずいぶん傲慢な考えだったと気づかされる。
司法書士は“話す仕事”じゃないと思っていた
この職業は「書くこと」「整えること」「確認すること」が中心だと考えていた。言葉を交わすのは必要最低限で、淡々と手続きをこなすのがプロだと信じていた。でもある日、ふと気づいた。お客様が求めていたのは、正確な登記だけじゃなく、「話をちゃんと聞いてくれる人」だったことに。亡くなったご家族の話をぽつりぽつりと語る依頼者の表情を見て、心が動いた。「そうか、言葉は書くだけじゃない。届けるものなんだ」と、ようやく腑に落ちた。
話すよりも書類、対話よりも制度との格闘
日々、法律と向き合っていると、感情というものをどこか切り離してしまいがちになる。制度の中で正確に処理することが何より優先されるこの仕事では、「対話」は時にやっかいなものだとすら感じていた。間違いを恐れて慎重になるあまり、心を閉ざしてしまう癖がついていた。けれど、その閉ざされた空間に風を通すのが、ほんのひと言の雑談だったりする。制度と格闘して疲れ果てた脳みそに、「この前テレビで見たんですけどね」という軽さが、ふっと救いをもたらしてくれる。
「時間を取られる」と思っていた小さな会話
以前、事務員が「今日、コンビニで猫が店番しててかわいかったですよ」と笑いながら話しかけてきたことがある。忙しい最中だった僕は「そうなんですか」とそっけなく返したが、あとでその猫の写真を見せてもらったとき、自然と笑っていた。たったそれだけのやりとりなのに、気持ちが少し軽くなっていた。あのとき、「時間を取られる」どころか、「気持ちが戻ってきた」んだと感じた。効率だけが価値じゃない、小さな会話にこそ意味があることを思い知らされた。
ひとり事務所に響く、ため息と沈黙
独立して事務所を持ったものの、最初はまったく余裕がなかった。電話の音が鳴らない日は、まるで自分がこの世に存在しないかのように感じた。無音の部屋にため息だけが響き、自分で自分を追い詰める日々。「誰とも話していない日」が数日続くと、声の出し方を忘れるような感覚に陥る。仕事は嫌いじゃないのに、「人との関わり」がここまで心に影響するとは思ってもいなかった。
事務員と交わす数秒の「今日寒いね」
ある冬の日、ストーブの前で手をこすりながら事務員がつぶやいた。「今日、ほんと寒いですね」──たったそれだけの言葉だったけれど、なぜか心に染みた。そこで僕も、「ほんとに。足が冷えてつらいです」と返した。気づけば、そのあと数分間、カイロの話や電気毛布の話をしていた。仕事とは無関係な、ただの雑談。けれどそのあと、気持ちがスッと軽くなって、作業もはかどった。あれは雑談というより、心のストレッチだったのかもしれない。
それだけで少し、気持ちが軽くなる不思議
不思議なことに、「雑談」はこちらが何かを求めたわけでもなく、誰かが意図して慰めたわけでもないのに、自然と救われている感覚がある。「お疲れさま」のひと言、「昼ごはん何食べました?」という声かけ──それだけで、「自分はここにいていいんだ」と思えるのだ。誰かがこちらを気にしてくれているという、その事実が、何よりの安心になる。
「ただのあいさつ」が一日の支えになる
「おはようございます」「お疲れさまでした」そんな当たり前の言葉が、独り仕事に慣れてしまった僕には、思いのほか重みを持っていた。人と関わるというのは、エネルギーが要る。でも、それがない生活は、乾いた風の中を歩き続けるようなものだ。あいさつひとつが心の水やりになる。それを実感するたびに、以前の自分がどれほど“人を必要としないフリ”をしていたかを思い知らされる。
たわいない話が、心を繋ぐ橋になる
「意味のある会話」ばかりを求めていた時期がある。成果や答えがある話じゃないと価値がないと思っていた。でも実際は、どうでもいい話の方が人を近づける。仕事とは関係ないけれど、雑談には「共感」の種が詰まっている。お互いの距離をほんの少し縮める、そのやわらかい橋渡しが、日々の重さを和らげてくれるのだ。
意味のない会話が、なぜこんなに沁みるのか
「昨日テレビで〇〇見ました?」──たとえばそんな話。中身はなくても、その語り口や相手の表情に癒やされる。会話の中に、「あなたに話したい」という気持ちがあると、それだけでうれしくなる。効率や目的から解放された言葉たちは、妙に沁みる。たぶん僕がずっと欲しかったのは、「評価される会話」ではなく、「気軽に話しかけられる自分」だったんだと思う。
孤独の中に、誰かの存在を感じる時間
長く一人で仕事をしていると、自分の存在すらあやふやになるときがある。朝から晩まで誰にも会わず、声も出さずに終わる一日。「これって生きてるって言えるんだろうか?」と不安になる。でも、たとえば郵便局の窓口での一言や、事務員との他愛ない会話が、その不安を静かに溶かしてくれる。人の存在って、言葉にして初めて気づくものかもしれない。