孤独をこじらせすぎた司法書士が、ふと我に返った日
誰にも頼れないと思っていた日々
「頼れる人がいない」と感じたことがある人は多いと思うが、私はそれをずっと「当たり前」のように受け入れてきた。司法書士という仕事は、孤独との親和性が高い職業かもしれない。日中は依頼人と接するものの、基本的には一人で判断し、一人で動く。職場には事務員が一人いるが、なんでもかんでも相談できるわけでもない。たとえば、夜中にふと「これでよかったのか」と不安になるようなことを吐き出す相手がいないのだ。友人と呼べる人は年々疎遠になり、飲みに誘われることもない。気づけば、自分の心をしまっておく引き出しばかりが増えていた。
相談できる相手がいないという現実
昔は、司法書士の勉強仲間とたまに電話したり、近況を話したりしていた。しかし開業後は、連絡を取るのが気まずくなってしまった。仕事の状況や収入の話になると、どうしても比べてしまう。私は地方で地味にやっているが、都心でバリバリやっている仲間を見ると、なんとも言えない敗北感に襲われる。だからといって弱音を吐ける家族もいない。年齢を重ねるごとに、「愚痴をこぼす相手」が必要なのは女性だけじゃないと痛感するのに、誰にもそれができない自分がいる。
「ちょっと話を聞いてほしい」が言えない空気
「大したことじゃないけどさ」と言って、ただ聞いてもらいたいだけの日ってある。でも司法書士として「しっかりしている」ことを求められてきた私には、それを許される空気すらないように思えていた。事務員に「ちょっと聞いてくれる?」なんて言えないし、かといってわざわざ電話するほどのことでもない。結局、誰にも言えずに夜に酒を飲む。そしてまた孤独のループに戻る。あの「聞いてもらえたら、少し楽になるのに」という気持ちを、どこに置けばいいのか、ずっと分からなかった。
電話の鳴らない事務所の静けさが刺さる
繁忙期が過ぎたある日、電話がまったく鳴らない静かな事務所で、自分の存在が宙に浮いたような気分になった。まるで自分だけが取り残されているようで、時計の針の音さえ妙に大きく聞こえる。何も悪いことはしていないのに、仕事がないだけで自分が否定されているような気持ちになる。これは職業病なのかもしれない。「静かで平和だね」と笑える日もあれば、「誰からも必要とされていないのかも」と落ち込む日もある。そんなとき、孤独が牙をむく。
「ひとりが楽」は、ただの強がりだったのか
かつては「ひとりでいるのが好きなんです」と笑って言っていた。実際、一人焼肉も一人カラオケも苦ではない。でも、本当のところは「誰かに断られるのが怖い」だけだったのかもしれない。ひとりでいた方が気が楽だし、面倒も少ない。だけど心のどこかで、誰かと過ごす時間に憧れていた自分がいた。その気持ちを無視し続けて、気づけば「ひとりが当たり前」になってしまった。こじらせたのは孤独じゃなくて、そんな自分自身だった。
誰にも邪魔されないという自由の代償
独身であることの利点を挙げれば、たしかに自由ではある。夜遅くまで仕事しても誰にも文句を言われないし、急にラーメンを食べに出かけてもいい。でもその「誰にも邪魔されない生活」は、同時に「誰にも興味を持たれない生活」でもある。楽な反面、誰かと共有する喜びや感情が削ぎ落とされていく感覚がある。誰かに「今日もお疲れさま」と言ってもらえるだけで、人は全然違うのに、その一言がここにはない。自由には、孤独という代償がついてくる。
昼休みにコンビニ駐車場で感じる虚しさ
事務所を抜けてコンビニに行く。おにぎりと缶コーヒーを買って、駐車場の車の中で食べる。その時間が、なぜか一番気が抜ける瞬間だ。だけど、ふと「この時間を誰かと共有したい」と思ってしまう。まわりの車では、夫婦らしき人たちが一緒に弁当を食べていたり、親子連れが笑い合っていたりする。こちらは黙々と食べるだけ。「別にそれでもいい」と自分に言い聞かせるが、心のどこかでは「本当にそれでいいのか」と問い続けている。
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書類は完璧、でも僕の心は修復中
書類は完璧、でも僕の心は修復中
完璧主義が生んだ“安心感”と“苦しみ”
完璧な書類を仕上げると、ほんの一瞬だけ安堵する。でも、その瞬間はすぐに次の仕事に押し流されて、気づけば夜。司法書士という職業は、ミスが命取りになることが多い。だから「完璧」であることは、ある種の保身であり、自己防衛だ。だけどその「完璧さ」を求めるあまり、自分の心がすり減っていることには、なかなか気づかない。最近は、達成感よりも「何も起きなくてよかった」という安堵の方が大きくなってきた。それって本当に健全なんだろうか。
間違いを許されない職業病
司法書士の仕事において、「うっかり」は許されない。印鑑の位置が1mmずれただけで訂正印、登記原因証明情報の文言が少し違っただけで法務局から補正が来る。その緊張感は、毎日のように肩にのしかかってくる。ある日、コンビニで小銭を渡し間違えただけで、異様に動揺してしまった。これが「職業病」なんだと思った。仕事では許されないミスを、日常でも許せなくなっている自分に気づくたび、どこか壊れていると感じてしまう。
「大丈夫ですか?」と聞かれたことがない
「大丈夫ですか?」なんて、もう何年も聞かれていない。たぶん、僕があまりにも“ちゃんとしているように”見えるからだろう。書類も期限も漏れなく管理して、電話応対も丁寧で、顧客からの信頼も厚い。でもその裏で、夜中にふと涙が出る日もあるし、事務員の前でだけ深いため息をつくこともある。人は“できる人”にこそ、大丈夫かと声をかけていい。そう思ってもらえる社会だったら、少しは違ったのかなと思う。
チェックリストが心のバロメーターになった日
ある日ふと、仕事用のチェックリストを眺めていた。完了のマークが全部埋まっていたその日、自分の心がまったく晴れていないことに気づいた。「終わったはずなのに、全然達成感がない」。むしろ、また明日もこれが繰り返されるという疲労感の方が大きかった。それからは、チェックリストが「達成の証」ではなく「生存確認」になった。今日はここまでやった、だから明日も生き延びよう。そんな気持ちで毎日を乗り切っている。
成果は出る、けれど満たされない理由
この仕事、やればやるだけ成果は出る。評価もあるし、売上も伸びる。でも、その成果が自分の心を満たしてくれるかというと、まったく別の話だ。達成感よりも、空虚感の方が勝る日が増えてきた。依頼が増えても、なんだか喜べない。たぶん、自分が何のためにやっているのか、少し見失っているのかもしれない。お金のため?信頼のため?いや、きっと「完璧な自分」でいなければならないという呪いがそうさせているのだ。
印鑑の押し忘れはなくても、自分の存在を忘れている
どんなに疲れていても、印鑑の押し忘れはしない。でも、いつも自分の食事は適当で、趣味にも手をつけず、気づけば季節が変わっている。書類の中の名前や住所はすぐに頭に浮かぶのに、自分が最近笑った記憶は曖昧だ。自分の存在そのものが、書類の“裏側”に置き去りにされているような感覚。司法書士としての役目は果たしているけれど、「人間として」生きている実感が、どこか薄れているのが本音だ。
「仕事ができる人」ほど、実は壊れてる
「先生、いつも完璧ですね」と言われるたび、内心では笑っている。そんなわけないじゃないか。実際はギリギリで回してるし、家に帰って玄関で靴も脱がずに倒れ込む日だってある。「仕事ができる人」って、実は壊れててもそれを隠すのがうまいだけだ。特に司法書士のような“プロフェッショナル”扱いされる職業は、弱音を吐くこと自体がタブー視されがちだ。だからこそ、自分の中で声をあげられる場所が必要になる。
一人で回す現場の静かな地獄
事務員が一人、あとは自分。そんな体制で、毎日大量の書類と人間関係をさばいている。誰かが体調を崩したら、もう現場は止まる。でも、止められない。急ぎの登記、確認待ちの書類、期限の迫った案件。すべてが“自分がいなければ回らない”ようにできている。責任感という名の地獄。誰にも気づかれず、音もなくすり減っていく。それが、地方の小さな司法書士事務所のリアルだ。
忙しさに慣れてしまった感覚の麻痺
朝から晩まで働くのが当たり前になりすぎて、「今日は暇だな」と思っても実際は5件の対応が入っている。そんな風に、感覚がバグってしまった。休日に「何も予定がない」と思ったら、実は法務局に提出する書類の見直しがある。忙しさに慣れすぎると、自分の不調にも気づかなくなる。疲れていることさえ感じないのは、ある意味で危険信号だと思う。でも、それにすら鈍感になっているのが、今の僕の現状だ。
事務員ひとり、あと全部自分
事務員さんは本当に頼りになる。でも、当然ながら全ては任せられない。登記のチェック、クライアントとの調整、報告書の作成、法務局との折衝、経理も雑務も「全部自分」。一日が終わるころには、頭も体もボロボロ。よく「人に任せれば楽になる」と言うけれど、田舎の小さな事務所ではそれも難しい。任せる余裕なんて、そもそも人手がないから生まれないのだ。
「暇ですね」と言われたときの返事が見つからない
たまにお客様や知人から「地方だと暇でしょう?」なんて言われるけれど、返事に困ってしまう。仕事が表に見えないだけで、水面下では足をバタつかせているのが現実だからだ。印刷、確認、スキャン、照会、補正、納品——。一つひとつは地味でも、それが山のように積み重なる。暇に見えるって、ある意味で僕の“仕事の仕方がうまく見える”ってことなのかもしれないけど、それでもやっぱり寂しいものだ。