職印だけが評価されている気がする日々に、ちょっと疲れた

職印だけが評価されている気がする日々に、ちょっと疲れた

書類が完成しても、褒められるのは職印だけ

長年司法書士としてやってきて思うのは、「書類の完成度=職印の存在感」みたいに思われがちな現場の空気です。何日も前から調査して、法務局やクライアントと調整して、ようやく辿り着いた完成品。それでも「先生のハンコもらえれば大丈夫ですから!」と軽く言われて終わる。ふと、自分は“職印を押すだけの人”に見られてるのかな、と虚しさがよぎるんです。

「あ、先生のハンコもらえれば大丈夫です」

この一言、耳にタコができるほど聞きました。書類を受け取りに来たお客様や、不動産会社の担当者が何気なく口にする言葉。悪気がないのはわかってる。でもね、その“ハンコ”を押すまでに、どれだけ細かい条文を確認して、どれだけ神経をすり減らしてきたかなんて、誰も気にしてない。まるで、僕がいなくても“職印さえあればいい”みたいな扱いをされる瞬間が一番堪えるんです。

言われ慣れても、胸にくるワンフレーズ

「言われ慣れてるでしょ」と笑う人もいるけど、慣れるもんじゃない。むしろ、毎回ちょっとずつ心が削られていく感じ。たとえるなら、毎日完璧に弁当を作ってるのに、最後に「箸があってよかった」とだけ言われるような気分。誰が米とおかず詰めたと思ってんだ、って。

誰がその登記、準備したと思ってるんですか?

登記申請書は勝手に生えてくるわけじゃない。お客様の話を聞いて、関係書類を集めて、内容を精査して、間違いのないように何度も確認して…。それ全部、僕がやってるんです。でも最後の“印影”がすべてを持っていく。舞台でスポットライトが当たるのは、いつも職印。それ、俺じゃダメなんですかね。

事務所の名前より、職印の印影が有名説

とある金融機関の担当者に「先生の印鑑、すぐ分かりますよ。太くて見やすいんですよね」と言われた時、なんとも言えない気持ちになった。「顔より先にハンコで覚えられてるのか…」と。たしかに職印には特徴があるし、それが業務上の信頼にもつながるのはわかる。でも、それが“僕の存在感”を上回ってしまうのは、ちょっと哀しい。

実在する人間より、紙に残るハンコが強い

人間の顔は忘れられる。でも紙に残るハンコの印影は残り続ける。職印というのは、それほど強烈な“存在証明”なんですよね。まるで、「お前は誰でもいい。職印さえ確かならOK」みたいな扱い。僕がミスしないように、どれだけ神経張ってるかなんて、誰も見てない。事務所の看板より、ハンコ一発のほうが信用される。皮肉だけど、それが現実です。

司法書士は人じゃなくて“判子機”と思われてない?

何かの機械のように扱われてる感覚になる時があるんですよね。「登記の準備はこちらでやりますんで、最後に押してもらえれば」とか言われると、「じゃあもう俺、FAX機でいいんじゃないか?」とすら思う。悲しいかな、努力のほとんどは誰の目にも見えず、結果だけが求められるのが司法書士という仕事の一面です。

自分が消耗して、職印だけが残る

過労で倒れそうになりながらも、今日も出勤して、書類を作って、職印を押す。だけど、残るのは書類と職印だけ。誰がどう頑張ったかなんて記録されない。体調を崩した時、僕の代わりに働いてくれる人はいない。でも職印の印影は、元気に残り続けている。なんだか、自分の存在の脆さを感じます。

疲れたのは“人間”のほうです

事務所の中で一番疲れてるのは、たぶん僕です。事務員さんがやってくれることに感謝しつつ、結局すべての責任は僕が背負う。クレームが来れば僕が謝るし、書類にミスがあれば僕が出頭する。でも感謝されるのは、立派に押されたあの印影。それってちょっと、不公平じゃないですかね。

書類1枚の裏にある、見えない時間と神経

ひとつの登記が完了するまでには、何人もの関係者とのやり取り、法律の確認、スケジュールの調整…実はかなりの労力がかかっているんです。でも依頼者から見えるのは、最後の1ページに押された職印だけ。「さすが先生、しっかり押してくれましたね!」と言われるたび、「いやそこじゃなくて…」と苦笑いしかできない自分がいます。

「ちょっと押しておいてよ」って軽いけど重い

「ハンコ、ちょっと押しておいてもらえます?」という言葉、軽いノリで言われるけど、実際には“押す”ってそのまま“責任を背負う”ことなんですよね。僕にとっては「命を預ける」くらいの覚悟で押してるのに、相手からは「レシートの裏にメモする」くらいの感覚。価値観のギャップに、正直ちょっと疲れてきます。

せめて事務員さんだけでも分かってくれるのが救い

こんな愚痴を黙って聞いてくれるのが、うちの事務員さん。無口だけど、細かい変化に気づいてくれて、「先生、無理しないでくださいね」とひと言くれるだけで、少し救われる。きっと、僕が“人間”であることを忘れずにいてくれる、数少ない存在なのかもしれません。

愚痴を言っても黙って聞いてくれる存在

疲れがピークに達して、思わず「もうやめたいなぁ…」とぼやいたとき、彼女は静かに頷いて、「でも先生、今日も登記完了しましたよね」と言ってくれた。ああ、ちゃんと見ててくれる人がいたんだ、って思えた瞬間でした。誰か一人でも自分の努力を見ていてくれるなら、まだやれる気がします。

それでも押すしかない、それが職印の宿命

どんなに疲れていても、どんなに空気のように扱われても、職印は押さないと仕事にならない。つまり、僕は今日も押す。文句を言いながらでも、弱音を吐きながらでも。そういう積み重ねが、たぶん“司法書士の仕事”なんだと思います。

結局、最後は責任のハンコを押すのが自分

職印が押された瞬間から、すべての責任は僕のもの。たとえ準備が誰かの手によるものであっても、最後の一押しが意味を持つ。それがこの仕事の重さ。逃げられないし、誤魔化せない。でも、それを担うからこそ、プロとしての誇りもある。…なんて言いながら、やっぱり今日はちょっと疲れた。

責任を背負う代わりに、見返りは…ありますか?

年収?名誉?信頼? いろいろ言われるけど、正直それほど実感があるわけじゃないです。ときどき「この苦労に見合ってるのかな」と疑問に思う日もある。でも、逃げずに毎日机に向かってる自分を、誰よりも自分が誇れたら、それでいいのかもしれません。

存在感が大きすぎる“職印”に飲まれないために

職印に振り回されて、自分を見失いそうになる日もある。でも、それでも“僕”という存在がここにいることを忘れたくない。誰かの役に立っていると信じて、今日もハンコを押す。たまには愚痴ってもいいですよね。読んでくれたあなたに、ちょっとでも「わかるよ」と思ってもらえたなら、それだけで今日は少しだけ救われます。

自分を保つには、愚痴ることも仕事のうち

誰かに聞いてもらうこと、共感してもらうこと。司法書士だって人間です。頑張ってるフリばかりじゃ、壊れてしまう。だから今日もこうして、独り言のように愚痴を書いています。言葉にして、残しておくことで、また明日もやっていける気がするから。

モテないけど、優しい性格は捨てない

正直、女性にモテる人生ではなかったです。でも、誰かのために頑張ろうとする気持ちは持ち続けてきたつもりです。優しさって報われないこともあるけど、無くしてしまったら僕じゃなくなる。だからこそ、自分だけは自分のことを肯定してあげたい。職印よりも、ちゃんと“人間らしく”いたいんです。

誰か一人でも「分かります」って言ってくれたら十分

このコラムを読んで、「自分もそうだよ」って思ってくれる人が一人でもいたら、それで十分です。僕は司法書士である前に、一人の人間として、今日も不器用に頑張ってます。だからあなたも、どうか無理せず、自分を労ってくださいね。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。