あしたもこのままだと考えてしまう

あしたもこのままだと考えてしまう

変わらない毎日が、じわじわと心を蝕む

朝起きて、顔を洗って、コーヒーを飲みながらニュースを眺める。そこから始まる一日は、まるで昨日の繰り返し。書類をめくり、電話に出て、登記の申請を確認して…。45歳にもなると、この日常が「安定」ではなく「停滞」に感じてくる。司法書士という仕事柄、日々の業務は一定のルーチンが多く、「今日も同じ、明日も同じ」という感覚が積もりに積もってくる。気がつけば、「このままでいいのか?」という問いが、頭の中でエコーのように反響し始める。

気づいたら同じ景色ばかりを見ている

事務所の窓から見える景色は、もう何年も変わっていない。通勤路も同じ、人と話す内容も同じ。ふと立ち止まると、「自分、ここで止まってないか?」と疑問が浮かぶ。特に繁忙期が終わったあとなど、少しだけ余裕ができると、逆にこの問いが浮かびやすい。変わらないことは安心かもしれないが、裏を返せば、挑戦や成長が遠ざかっている証拠でもある。そう思ったとき、心の中にぽっかりと穴が空いたような感覚になる。

朝のルーティンが恐ろしく機械的になっている

毎朝のルーティンは正直、楽ではある。でも、それが“生きている実感”を奪っている気がする。顔を洗って、ヒゲを剃って、同じ時間に同じパンを焼き、事務所に着くころには、もうすでに「今日が終わったような気分」になっている日もある。まるで自分がプログラムされたロボットのようで、時々怖くなる。この状態が何年も続いたら、自分という人間はどこに行ってしまうのかと不安になる。

「今日こそ何か変えよう」と思ってはみるが

変えたいという気持ちはある。たとえば朝に少し散歩をしてみようとか、新しい本を読んでみようとか。でも実際には、目の前のタスクに追われてその“変化”を始める余裕が持てない。「今日こそは」と思って寝ても、翌朝にはまたいつもの繰り返し。そんな自分に自己嫌悪を感じて、ますます動き出せなくなっていく。ルーティンの殻は意外と分厚く、ちょっとやそっとじゃ壊せない。

仕事の忙しさが、変化の余地を奪っている

登記手続きや相続の相談、日々の案件に追われていると、思考する余白すらなくなる。頭の中はタスクのリストでいっぱいになり、少しの変化やアイデアに気づく余裕がなくなる。何か新しいことを始めるには、時間だけでなく“心のゆとり”が必要だと痛感する。だがそのゆとりが一番欠けている。仕事が安定しているという安心感と裏腹に、「このままでいいのか」という不安も常に隣にいる。

目の前の依頼を捌くだけで精一杯

一件一件の案件はそれほど難しくなくても、積み重なると大きな山になる。書類のチェック、依頼者とのやり取り、提出期限の管理…どれもミスが許されない。だからこそ慎重になり、疲れがたまっていく。そんな日々を繰り返す中で、ふと気づくと、何かを「やろう」と思っていたことすら忘れてしまっている。やりたいことより、やらなければならないことに押し潰される毎日。

「来週は落ち着く」なんて自分へのウソ

忙しい今を乗り越えれば、少しは落ち着くだろう。そう思ってやり過ごしてきたが、その「来週」は一度も来なかった。結局、新しい案件が入ってくるし、イレギュラーなトラブルも発生する。自分に「大丈夫」と言い聞かせてきたけれど、最近はその言葉すら信用できなくなってきた。休むための時間を取る努力をしない限り、永遠に「来週」は幻のままだと、ようやく認めざるを得ない。

孤独感が募る静かな夜に

夜、自宅で一人の時間を過ごしていると、ふと胸に重たいものが降りてくる。テレビをつけても、SNSを見ても、心は晴れない。何かに取り残されたような感覚。世間では「孤独死」なんて言葉がよく使われるが、あれは高齢者だけの問題ではない。働き盛りの今でも、十分に孤独だ。忙しい日中には感じないこの感情が、夜になると一気に押し寄せてくる。

一人でいる時間が長いと考えすぎてしまう

人と話す時間が少なくなればなるほど、頭の中の“独り言”が大きくなる。今日の仕事はうまくいったか、このままの働き方でいいのか…。答えの出ない問いを自問自答して、さらに気分が沈むという悪循環。独りの時間は本来、大切なはずなのに、それがただの「不安の温床」になってしまう。そう感じたとき、誰かと無駄話でもできる存在のありがたさに気づく。

気軽に話せる人が減っていく恐怖

年齢を重ねるごとに、友人とも疎遠になりがちだ。昔は深夜まで電話できた友人も、いまは家庭がある。LINEを送るのも気を遣ってしまう。そうなると、ますます話せる相手がいなくなっていく。仕事の悩みを相談できる仲間がいる人が羨ましい。だが、自分からつながりを作ることが億劫で、結果的に孤独を自分で選んでしまっている部分もある。

「飲みに行こう」と言える相手が思い浮かばない

たまに「誰かと飲みに行きたいな」と思う。でも、いざ誰かに声をかけようとすると、言葉が出てこない。「急に何だと思われないか」「忙しいだろうな」そんなことを考えて、結局は自分にブレーキをかけてしまう。だから一人でコンビニの缶ビールを買って、家で飲む。そんな夜が何度続いただろうか。人と会うのはエネルギーがいる。でもそのエネルギーが枯れてしまっている。

誰かと比べても意味がないとわかってはいても

「他人と比べても仕方ない」とはよく言う。でも、SNSで楽しそうな写真や「仕事うまくいってます!」の投稿を見るたびに、どこか自分が取り残されている気がしてしまう。いいねの数、フォロワーの数、そういうものに惑わされないはずの自分が、妙に気にしてしまう。この歳になっても、他人の評価が気になっているという事実に、自分でも驚く。

幸せそうな投稿を見てしまうSNSの罠

知人の結婚式、子どもの成長、旅行の写真。そういう投稿を見るたびに、羨ましさと虚しさが混ざり合う。幸せな人の姿を見るのは悪いことではない。でも、今の自分が置かれている状況と比較してしまうと、「あしたもこのままだと考えてしまう」気持ちが強くなってしまう。SNSはつながりを感じられる反面、孤独を突きつけてくるツールでもある。

「自分は何をしてるんだろう」とまた夜が更ける

夜中、パソコンの前で仕事をしていて、ふと手が止まる瞬間がある。そういうときに「自分は何をしてるんだろう」と考えてしまう。がむしゃらに働いて、成果はそこそこ。でも、心の中は満たされていない。自分なりに頑張ってるつもりでも、誰かに見られているわけでもない。そんなとき、「あしたもこのままなのか…」という思いがまた浮かんでくる。

抜け出すヒントは、ほんの小さな変化にある

すべてを変える必要はない。でも、今のままでは何かが壊れてしまいそうだと感じるなら、どんなに小さなことでも変えてみる価値はある。完璧じゃなくていい。ひとつでも違う選択肢を持てたら、それが新しい景色につながるかもしれない。変わらない日々の中にも、小さな可能性はきっとある。

完璧を求めないことから始めてみる

何かを始めるとき、「どうせ続かない」と自分を責める癖がある。でも、続けることより、「始めた」ことに価値があると考えるようにしたら、少し気が楽になった。たとえば、毎日3分だけ日記を書く。それだけでも、自分の内側と向き合う時間が生まれる。完璧主義を少しだけ手放せば、肩の力も抜けて、見える世界が変わってくる。

「今日はちょっとだけ」でもいいと思えるか

毎日なにかを頑張るのは難しい。でも「今日はちょっとだけ」と思えば、ハードルは下がる。朝いつもと違う道を歩いてみる。昼にちょっと高めのランチを食べてみる。それだけでも、「今日は少し違った」と思える。そんな小さな変化が、明日への希望につながっていくと感じるようになった。

一歩動くだけで、見える景色は変わるかもしれない

このまま変わらない毎日に押しつぶされそうなら、ほんの一歩だけ動いてみる。たとえば、久しぶりに知人に連絡してみる。読んでなかった本を開いてみる。それが大きな転機になることもある。結局、明日を変えるのは“今日の一歩”なんだと、最近ようやく気づき始めている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。